時白

もしもの話はいつでもある。
ifの分岐点で何が変わるのか。
昔はなんて枕詞の上で今はと繋がる。
昔が良く今が悪い。
そんなものの逆なんてものも幾つもある。
何時だってそんな思いは変わる。
昔から良いものを今も良くし続けるなんて無理な話だ。
比較はいついかなる時も起きる。

まぁただ、未来なんてものは何も決まっていない。
だから、昔はないが今はある。
今はifの結果から生まれた未来だから。
選べれなかったもしもなんてなかったのかもしれない。
矛盾する話だが
人間は一つの事しか選べない生き物だし世界はひとつしか選ばしてくれない。
だからifは生まれるが結果的に未来で捨てたはずのifを拾うことになる可能性もある。
未来は何も決まってないからね。

私はそれはいいことだと思う。
温故知新のように、昔はその必要性がないから捨てたが今はそれが必要になった。
その繰り返しはifという考え方をもしもあればなんていう架空の良い選択肢として拾ってくることに過ぎない。
思い至ったが今は無理だからと捨てたものも結局未来では実現できるからと言って拾うこともある。

結局、ifやもしもなんて言葉はその場時点の観測に過ぎず過去未来においてはただの思考の結果における1つの過去未来でしかない。
実現や後悔全てにおいてその結果はひとつの答えにしかならない。だから、人はその過程をifやもしもと言う。

淡い希望や1点の後悔、それを経験し人は成長する。だから、この可能性のひとつは必要であるのだろうね。

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