野薔薇咲くころ

 兄さん。お元気ですか。
 島外へ出て行かれてから、もう何か月になるでしょうか。
 美代子は元気ですと言いたいのですけど、本当は元気でないので困っています。もう父さんも母さんもいなくなって、今は私だけで住んでいるこの家の広いこと、そして静かなこと。
 聞こえるのは野薔薇が棘を研ぐ音ばかりです。
 今も隣の部屋からかしかしと音が聞こえます。朝も昼も夜も絶えず鳴っているから、頭がどうにかなりそうです。でも開花までにはまだ時があるから、私ひとりでも何とかなっています。
 兄さん、いつ帰ってくるのでしょうか。開花の時期になったら、いよいよ私ひとりでは手がつけられなくなりますから、どうぞその前に帰ってきてください。
 野薔薇は元気です。一日中棘を研いでいます。
 ほんとうは兄さんに、明日にでもお帰りになってほしいのです。
 それとも、まさかもう、お戻りにならないつもりではないでしょうね。

 一週間ぶりにアパートへ帰ると、郵便受けに同じ封筒ばかりみっしりと詰まっていた。部屋に持ち帰って開くと、すべて故郷の島に置いてきた妹からの手紙である。
 開花か。それまでに戻らなければという気持ちと、どうして戻らなければならないのだという気持ちがせめぎ合っていた。その間に妹の――美代子の華奢な姿がちらついた。美代子は園芸鋏を持っている。野薔薇のつぼみを間引いている。ばちん。
 おれは溜息をつく。
 美代子は、強い女だ。
 不肖の兄など戻らずとも、なんとかやってゆけるのではないか。
 おれは、他人のふりをして手紙を出すことを妄想した。「貴女の兄は不幸にも事故に遭い、命を落としました」そうして死んだことにしてしまえば、おれは自由になれる――
 こつん、と窓を叩く音がした。
 おれは外廊下に面した窓を見た。いつのまにか曇りガラスの向こうに、濃い緑の塊があった。
 かしかし。かしかしかしかし。
(棘を研いでいる)

「兄さん」

【続く】

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