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はまぐり日記

京都御所北端の今出川御門から南に進むと朔平門の威容につきあたる
御所内にひとはまばらで、彼らは観光客ではなかった
犬を連れて、或いは自転車で通過する、みな周辺住民だ

去ること153年前の7月4日(現代暦)、正四位下姉小路公知がこの朔平門をくぐりでた直後に闇討ちに遭遇した
公家方にあって急進的攘夷を唱える三条実美と並び立つ姉小路公知だが、勝海舟との会談後、志を同じくするはずの薩摩藩士に開国派への変節を疑われ、手練に取り囲まれ果敢に抵抗しながらも深手を負って翌日絶命したと云う

くすみひとつない内裏外郭の壁に沿って右に進み西端の隅から再び南に向き直ると、直線的に開けた空間が遠く1000m先まで続く
その、京都の喧騒を見えない力で境界の外に押し留めているような、御所の穏やかな空間をさらに歩く
玉砂利のザクザクという音が耳に響く

連れは小柄に似合わず足早に南進していく
かつて日本のまつりごとの中央であったこの空間の威容など歩を進めるになんの故障も及ぼさないという調子だった

玉砂利の歩道の横に連なる松林のベンチに、息が続かず腰を降ろすと、小柄なそのひとは物理的心理的にこちらを見下げて、ペットボトルの水を差し出した
昼メシを喰ってないからいま糖分こそが要るのだがジュースではなく水を買ったのは俺だ

小柄な従者は手を腰にあて眉をしかめ地面をつま先で弱くかき混ぜ、この小石ひと粒、持って帰っても怒られないだろうか、とつぶやいた
「ポケットいっぱいでも大丈夫なんじゃねーの、あの皇宮警察の黒塗りカーが行ったあとなら」
黒塗りセダンが辺りを睥睨するようにゆっくりと通り過ぎ、我々はまた歩きだした

公知の暗殺は尊皇攘夷派に動揺を与えた
三ヶ月後、その政治的混乱を突いた会津と薩摩による朝廷内の急進攘夷主義者一掃の策謀により、長州は一転して御上に仇成すと糾弾され、みやこを放逐される
「八月十八日の変」として知られるこの政治騒擾は、のちの王政復古プロトコルの原型となった

内裏外郭の南端には清水谷家の椋という老木がポツリ、というよりどっしりと、添え柱に支えられ生息している
「ここから真西、ほらあの門、あれがハマグリ」
ハマグリ?と従者は聞き返す
「いやいやいやいやいや」
知らないらしい
「蛤御門だろ、あの!長州と会津の因縁の!!」
いったい、そんなことがあるか?日本の教育システムの問題か?従者はとうに大人の年齢だ

八月の変により長州が京を追われ、朝廷の攘夷派は徐々に幕府の開国工作に押し切られていく
翌年8月20日(現代暦)、入京を強行する長州軍と、一橋慶喜麾下松平容保率いる会津藩精鋭が禁門、ここ蛤御門を境に衝突した
戦闘は二日でほぼ収束し長州軍は潰走、放たれた火が大火となり街々を焼いたと云う

こんにちの蛤御門にはその禁門の変の激しい戦闘で銃撃されたと云われる弾痕がいくつか残っている
百年以上前の弾の痕にしてはツルッツルじゃない?木肌も新しいし、と従者は訝しげだ
なるほど、だが新しく見えるのは観光客がみな指で挫いていくからかも知れぬ

ここで死んだもの共は蘇らず撃たれた弾も消えた
あるじの名誉と冊封政治体制の存亡、国際情勢に適応せんとする国家的懊悩が招いた戦場の上を、鉄の馬車が往来し町人が狗を連れ歩き息の上がった不摂生者が御上の御庭で砂糖水を飲み下す世になると、彼ら古人は一片でも想像し得ただろうか

多きに曲折を経ましたが、あなた方の命のお蔭で、今の日本はまた平和です

小躯の従者の思いは何処や、おかしな方向のおかしな写真を熱心に撮影していた

そののちはシャツの袖をめくり上げて木立と芝生に囲まれた小径を、飛び石のようにベンチからベンチへ彷徨いながら、御所南端の地下鉄烏丸御池駅に逢着した

夕食の海鮮料理屋にはまた更に歩くことになった
敗残の長州兵の怨嗟が重くのしかかる体躯を引き摺って、いやいやいやさっきちゃんと感謝したでしょうがと苦りつつ。

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