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神戸と大阪と京都の食文化 その2

阪神淡路大震災に被災した場所は、阪急芦屋川駅から山に向かって徒歩10分ほどの家賃7万円のワンルームマンションでした。さらに山を上るとロックガーデンという山登りの方のための観光地がありました。

つまり地盤は硬く安定した場所でした。近くには『山邑邸』がありました。これはフランク・ロイド・ライトが設計し、現存するゲストハウスです。

歴史的な遺産だと思い、いつも帰宅途中に仰ぎみていました。
https://www.lmaga.jp/news/2019/02/59598/

関西の豊かな文化や自然を感じながら、しかし新入社員として転勤し仕事をする環境は心身に堪えました。

仕事をして関西を楽しむまで丸3年かかりました。4年在住し楽しめた期間は1年足らずでしたが、この1年間の中に10年分の楽しさが詰まっていました。

食文化の話に進まないので、ここで甲陽園の『萩甚』について記述します。

萩甚さんは阪急神戸線の夙川駅から甲陽園線にのり苦楽園を経て到着する場所です。山あいの落ち着いた雰囲気のある街並みでした。そこから車で山を登ることたぶん5分くらいの場所にひんやりとした林の中に数寄屋造りと思われる日本家屋に『萩甚』がありました。

私は関西生活の最終年に、このお店に同期入社の盟友から紹介を受け圧倒された記憶が消えません。初めてお邪魔したのは夏の暑さが日増しに厳しくなる7月末だったと思います。

土曜日の、夏の、昼の、11時半という私が最も好きな時間帯にお邪魔したのです。お昼はお鮨を出してくださいました。いつもより多く取った睡眠時間の起き抜けの身体にアサヒスーパードライの生をいれます。味がシャープで酵母の香りがする、こんなに旨い生ビールを後にも先にも飲んだことがありません。

当然、二杯目に行きます。少し落ち着いた舌と身体は目の前の先付けに向かいます。その後はもうひたすらにご主人の握るお鮨を食し「少し足りない、もっと食べたい」というところでお鮨が終わります。たぶんその頃にはスーパードライを三杯は頂いていたと思います。

山の中から続く林からそよぐ風、お店のエアコンはついてません。林側には竹格子の窓、反対側にも窓、風の通り道がみえるようです。

わたしは萩甚さんに何度も通いました。当時お付き合いしていた方とも行きました。若造のわたしはご主人に敬意を伝えた上で

「ここで食べるもの全てがおいしいのは、なんでなんでしょうか」

とストレートに聞きました。中尾彬似の迫力があり優雅なご主人から思いもよらぬ答えが返ってきました。

「この建物は酒蔵の木材を使って建てたから、酒の酵母とか旨みが空中に浮遊しとるんじゃないですかねぇ」

魚の素材がとかビールの温度や注ぎ方がとか、そういううわべの話ではありませんでした。わたしは心の底からの感動と衝撃を受けました。

こんな客の遇し方があるのか、と。

都内でも移転したお店が新築となったものの、味が変わった、美味しくなくなったなどの話を聞きます。

萩甚さんのご主人はたぶん、お店を構えるときに既にこのことを計算に入れておられたのだと思います。つまり客を遇する時には、土地、建物から始めるという思想です。

当時わたくしは26か27歳でした。社会人となり、少し仕事慣れてきた生意気盛りの若造に教えをくださった事は今でも忘れません。

このご主人の思想は、まぎれもなく「茶」の「道」に通じるものがあります。

利休が大事にした空間、庭に広がる敷松葉(しきまつば)、待合、そして小間で点てる濃茶に至るまで、そこには地面や土、その上の建物、そこからみる景色、流れる空気、萩甚さんのご主人はカチカチの茶道の流儀を客に提示するのではなく、極めて分かりやすく本質だけを抜き取って示された事が分かります。

この事が32歳の時にわたくしの表千家への入門へと繋がっていることは間違いありません。

入門免状まで取得し仕事が過密となりドロップアウトしてしたものの、合理性やしきたりをそれなりに体感した今、改めて茶道に向き合っても良いのかもしれないと感じております。

関西の食文化は
人の心を揺さぶり
生き方を変えていく

本当にありがとうございました。