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たとえ忘れてしまっても【週刊Nocturne#5】

投稿遅くなってしまい申し訳ございません。
こういった投稿遅れなどの積み重ねが、次第に週刊Nocturneの熱を冷ましていくのでしょう。気をつけます。

焚き火をしていると気がつきますが、燃え盛る火を絶やさないためには、「風」が必要なんですよね。週刊Nocturneの火を絶やさないためにも、新たな風(書き手)を募集しております!!

最近、風土という言葉には「風」が入っていることに気がつきました。風土を形成するためには、土だけではダメなのです。週刊Nocturneの土(これまでの積み重ね:5週間も継続してて凄い!!)と、常に変化し続ける新しい風が、このマガジンの風土を形成していきます。

200年に一度の「風の時代」というだけあって、「風」がこれからのトレンドになっていくんだろうな。などと、最近「風」というものをよく意識するようになりました。

つまり、何が言いたかったかというと、(テーマは変わるけど)ずっと同じメンツだと飽きるの(僕はかなりの飽き性ですの)で、新たな刺激を求めています。ということです。
#最初からそう言えよ

      ***

ということで、本題に入りたいと思います。

■ウチとソト

本日のお題の出題者である真菰さん(ずっと思ってたけどなぜその名前?)の関心の元になった記事がこちらだそうです。

この記事を読んで、なんかモヤモヤしました。このモヤモヤをうまく口では説明できないのですが、ちょっと思ったのは、
・「日本的」っていう言葉に凄い違和感を感じました。というのも、この言葉の存在自体に「ウチ」の意識を強く感じるからです。そりゃ程度の差はあるかもしれないけど、別に「ウチ」や「ソト」を意識するのは日本人だけじゃないと思います。じゃなかったら、海外で人種差別なんて起きてないだろうし、ましてや宗教対立なんて起きるはずもない。むしろそう考えると、日本人の方がよっぽど和の(「ソト」を受け入れる)精神を重じているのではないかと思います。それでも「いじめ」や「はぶき」などといった悲しいことは消えないのですが。
・何か「ウチ」や「ソト」を意識することが悪いような雰囲気で書かれているけど、別に悪いことじゃなくない?
っていうモヤモヤが、この記事を読んで募りました。

■コミュ力

ウチソト文化を考える上で、コミュニケーション力(以下コミュ力)というものについて考えてみたいと思います。

高校の頃に僕が残した、「コミュ力が高い人は、コミュ障とも仲良くできるはずなんだから、コミュ障なんてこの世にはいないはずだ」という方程式は、今思い返してみても、あながち間違ってないような気がします。その方程式の後に続く、「だから、あいつはコミュ障だから会話できねーといって会話を諦めるのは、自分のコミュニケーション不足を棚に上げて、相手のことを批判しているだけだ。」という解については、ちょっと拗らせすぎてたなと思うくらいには成長しました。


僕は人とのコミュニケーションというと、下のような図をイメージします。

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あるAさんとBさんがいて、2人の共通点の部分で多くのコミュニケーションが行われる。ここの重なり合う部分が多くなればなるほど、コミュニケーションを行いやすい(会話のネタがある)のだと思います。

ペルソナ(仮面)という言葉や、最近チラッと見つけた本に、人間は誰しも多重人格なんて本がありますが、そりゃ当たり前だろって思います。人やコミュニティが変われば、自分(の見え方)もかわるはずです。言っていることや態度が変わると八方美人なんて言われてしまいますが。。

ことわざでいうところの、【群盲象を評す】ですね。

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僕は中学生の頃に、「自分のことを誰も理解してくれない」と、とても悩んだことがあります。
高校生の頃に、誰も自分のことを理解しなくて当たり前だし、できない。むしろ自分の全てを理解されるのは嫌だな。と思うようになり、ようやく自分を受け入れられるようになりました。
大学に入ってからは自分と波長が合う人や、自分の興味関心について話せることも多く、それに関して悩んだりすることもなくなりました。大学ってなんか知らないけど波長合う人多いよね。

僕は、この円の重なりを大きくするために、知性が必要なんだと思っています。

真菰さん(何故この名前?)は、自分はサッカーがないと人と本音で打ち解けられないです。と悩んでいましたが、そりゃそうだろ。って思います。それだけ「ウチ」と「ソト」ってあるものだし、だからこそ、仲良くなることに価値があるんだと思います。

#スポーツって偉大

なので、真菰さんに対する僕の意見としては、

#サッカーなめんなよ

って感じですね。スポーツは、言語も国境も人種も年齢も越えられる。だから偉大だと思います。最近は、工業化・分断化によってプロ(お金)に注目されていますが、本来のスポーツの力って、それだけじゃないんじゃないかなって思っています。

僕は自分とは全く違う人と話すのが好きです。それはなぜかというと、自分とは異なる相手の存在を知ることで、自分を理解するのが好きだからなのだろうなと思います。

シェアハウスで一緒に暮らしていた友人とも、全くといっていいほど考え方が違くて、その違いを見つけるのがとても楽しかった記憶があります。

その一方で、自分と似た考えや雰囲気を持っている人を嫌う傾向があります。いわゆる同族嫌悪というものです。最近も指摘されて、改めて何でだろうと考えたところ、
1. ライバル視する→負けたくない気持ちが働く→あまり仲良くしたくない
2. 同族の嫌いなところ=自分の嫌いなところ→自分の嫌いなところを知りたくない→あまり仲良くしたくない

といったところな気がします。多分、自分のことが大好きで、大嫌いなんだと思います。(現時点の自己分析では。)

■終わりに

このnoteは、当時かなりの話題を呼んだnoteです。
多くの方が、いいねを押した中、落合陽一さんは、なぜこの記事がこんなに話題になって、いいねがついているのかが分からない。世界がとうの昔から分断されていて、そのことを現場の人は理解しているはず。それなのになぜ今、この分断に関する記事がこれほどの注目を浴びたのか。このnoteが一過性のものになってしまう。

的なことを言っていました。これは確かにそうで、分断に関しても、いじめについても、地球温暖化についても、SDGsについても、フードロスについても、その時は強く何かを感じても、なにか行動をするかといえばそんなことはないし、仮に行動を始めたとしても、長続きしません。ここに、なにか重大な問題があるのですが、この問題すら、時間が経てば忘れてしまうのでしょう。

でも、この記事を読んだあなたが、少しでも何かを感じ取ってくれたのであれば、書いた甲斐はあったのかもしれません。

今回のテーマは、割と感情に任せて書きました。たまには、こんなセンチメンタルな日があってもいいよねってことで、ご容赦ください。

それでは。

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最近の僕の疑問は、
『なぜ大人たちの間でclubhouseがこれほどまでに流行っているのか?』
だったのですが、その理由は、分断された世界で戦ってきた大人世代(ビジネスマン達)の秘密の溜まり場となっているからだという風に今は考えています。

古市憲寿さんが書いた「絶望の国の幸福な日本人」にある通り、今の若者達は、自分の周りの小さなコミュニティで満足している。
だから、今更コミュニティを作る必要がない若者たちにクラブハウスは刺さらないのだと思っています。
#これから流行るかもしれん
#そん時はドンマイ

    ****

おしまいおしまい。

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