Fast and Slow − 診療のスピード感

はじめに

ダニエル・カーネマンのファスト&スロー(Thinking, Fast and Slow)は行動経済学の本で、「速い思考」「遅い思考」という二つの思考システムを扱っています。これらと麻酔科の専門科領域での立ち位置や少し医療安全について述べていきます。

麻酔科ならびに他診療科との比較のイメージが少しでも鮮明になれば、と思います。医学生や初期研修医の方々は診療科選択の一助にしていただけると幸甚です。

診療のダイナミクス

医療での患者への対応での基本は、まず生命の兆候を維持してからその原因を追求することです。

「この患者、なんで悪くなっているんだろう?」と熟慮したまま待たせているうちに、容態がさらに悪くなり患者が亡くなってしまっては元も子もありません。

現実的には、生命の兆候(バイタルサイン)の維持と原因究明を同時並行で行っていきます。その2つの兼ね合いは患者の重症度、つまりバイタルサインの安定度で決まります。

バイタルサインがより不安定であれば、その維持に重点が置かれます。安定してきたら原因検索により時間をかけられるようになります。

重要度:バイタルサインの維持 > 原因究明

診療科によって、バイタルサインが不安定な患者に遭遇する頻度は異なります。救急救命は、安定な患者から非常に不安定な患者まで広く扱います。これらの患者の重症度をうまく振り分けて効率よく診療していく(トリアージ)ことも話題になるくらいです。

手術室では、特に予定手術では安定した患者管理が基本的ですが、手術中、突然のバイタルサインの変化の可能性が常にあります。予期できるものからできないものがあり、その対応は速やかに行われなければいけません。

一般病棟ではバイタルサインの安定した患者がいるため、原因究明に主眼が置かれます。

バイタルサインの維持について行うべきことは割と単純です。血圧が下がれば上げ、酸素が足りなそうなら投与する、といった具合です。対症療法です。

やり方や戦略は異なることがありますが、大概その手順は固定的です。一方で原因究明については、診療アルゴリズムなどある程度の方針がありますが、バイタルサインの維持より分岐の多い思考が要求されます。

診療科による違いを車の運転に例えられているのを見たことがあります。

麻酔科のいる手術室は高速道路での運転。やることは普段からあまり変わりはありません。真っ直ぐ走ることと、車線変更、たまの道路の切り替えです。単純ですが基本的に目が離せないので、5秒間ほど目をつぶるのは少し怖くてできません。

一般病棟での患者管理は一般道路での運転です。目標地点への道順は単純でないこともあり、その都度考えなければいけません。信号がたびたび現れ、そこで5秒間ほど目をつぶるのはそれほど危険ではありません。

集中治療室は手術室と一般病棟の中間といったところだと思います。

診療の時間単位・時間感覚

時間感覚についても述べます。

一般病棟では、なにか患者に治療を施したときに結果・反応が現れるまで、だいたい1日〜数日程度かかります。

集中治療室では患者の変化や治療は1〜数時間単位で起こります。

手術室での麻酔管理では、数分、ときには数秒単位での対応が必要になります。速い対応が必要な場所ほどバイタルサインがダイナミックに変化します。

患者からのレスポンス時間の単位
 一般病棟:1〜数日
 集中治療室(ICU):1〜数時間
 手術室:分単位、時に数秒

ようやくここで始めに登場した「速い思考」と「遅い思考」について触れていきます。

「速い思考」というのはほぼ考えずにパッと結論が出るような思考で、パターン認識が典型例です。

こういう状況ではこれを行う、などといった一連の流れをいくつか頭脳の引き出しにしまっていて、それをいつでも取り出せる状態です。

麻酔科のような対応が素早いけれど、行うべきことは比較的決まりきっていて単純な場合は「速い思考」を主に使います。案外、忙しい外来でもこの思考方法の重要度が高いかもしれません。

「遅い思考」はもっと意識的に頭を使い、慎重に考慮していく思考プロセスです。

ある目立つ症状に引っ張られて他の可能性を見逃していないか、つい最近経験した症例から鑑別診断を引きずっていないか、など「速い思考」にブレーキをかけるような慎重さを持っています。時間の流れが急でない一般病棟、慢性疾患を扱う診療科ではこの思考方法が活躍します。

手術室での「遅い思考」

手術室では効率・能率が求められ、ほぼ「速い思考」で物事を進めていきます。ただし「速い思考」は慎重でないことが欠点であるため、それを補うために「遅い思考」の時間を作ってあげることが患者安全のために必要です。

麻酔をかける前、手術を行う前のタイムアウトは、この「遅い思考」を作り出す役割があります。これは意図的に時間をスローダウンするものですので、面倒臭いな、と思わせたらそれはそれで成功です。

2分間に満たない、タイムアウトを含めた手術安全チェックリストの使用で手術合併症と死亡率を30%減らせることが知られてますので、予想以上に効果があります。

まとめ

今回は病院の場所による時間の流れ方の違いと、そこでの思考方法の違いを「ファスト&スロー」を題材に述べました。

診療科の選択に悩んでいるのなら、自分は「速い思考」と「遅い思考」でどちらを使うのが好きか、時間の流れが速い方が好みかどうかなどを参考にしてみてはいかがでしょうか。

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