『倫理』の矛盾が世界に追いつき始めている。
お前と大谷翔平にはなんの関係もない
突然だが、大谷翔平の凄さを語るときに「日本人として誇らしい」という言い方をしている人間を見て、私は腹立ちを覚える。
大谷翔平はすごい。今までプロ野球選手の誰もが、世界トップレベルであろうメジャーリーガーですら成し遂げられなかった二刀流をこなし、結果だけでなくその人柄も評価され、しかもそれは、才能だけでなく努力をバックボーンにしたものだ。
それは、大谷翔平がすごいのであって日本人であることとはほとんど関係がない。いや、関係はあるか。野球人口の多い日本だからこそ、大谷翔平という才能は埋もれることなく世に出ることができた、とは言えそうだ。
だが、それは日本人として誇ることではない。大谷翔平という個人の努力と成功を拝借して、「日本人である」という共通点で気持ちよくなろうとしているのが見えて、嫌な気持ちになる。お前は大谷翔平の成功に何一つ寄与していないだろう、と思う。まあこれは、僕の人間性がねじれすぎているだけではあるのだけれど。
言うまでもなく、団体への所属欲求は人間に備わる本能だ。だからこそ、人間は自分が何者であるかを説明する時、団体を持ち出そうとする。それは会社だったり、学校だったり、あるいは家だったりする。
これは合理的ではない。だが、社会はそうなっている。人間に元々備わった本能を無視するほどの非合理ではないからだ。
世の中にはこういう物がいっぱいある。そのひとつが倫理だ。
倫理とはなんだろう
生命は生存のために進化した。という言い方は少し間違っている。生存できないものは、死ぬのだ。だから、これは結果論だ。死んでないものだけが生き残っているから、結果的に生命は生きることにふさわしいものだけが残った。
生命には快楽と嫌悪がある。食うことは快楽だ。寝ることも快楽だし、交わることも快楽。逆に、危険にさらされると嫌悪を感じるし、寝たり食べたりできないとイライラする。
食うことが嫌いなやつも、寝るのが嫌なやつも、交尾が嫌なやつも、その遺伝子は残らない。だから消えた。逆に、危険に興奮するようなやつもだいたい死んだから、その遺伝子は残らない。だが群れには特攻隊長みたいなやつが居たほうが都合が良かったらしく、そういう遺伝子はちょっと残ったりする。
で、だ。生き残るためには幸福と不幸は両方とも必要だった。逆に言えば、幸福を求めることは種としての生存とイコールではないから、たびたび社会では矛盾が生じることとなる。
たとえば、とある伝染病に強い遺伝子と弱い遺伝子がある。ここが非文明であれば、伝染病に弱い遺伝子はすべて死滅し、強い遺伝子だけが残り、結果的に伝染病を克服した種だけが残る。
だが、伝染病によって苦しみながら死ぬこと、あるいは家族が死ぬことは幸福ではない。私だって、見知った人が伝染病で死ぬことは嫌だ。よって、社会では伝染病を治療することになる。
ここで、どうして我々は伝染病を治療するのだろうか。倫理だ。それが倫理的に正しいと感じるからだ。では、なぜそれを正しいと感じるのだろう。答えは単純で、群れの仲間を守ろうという遺伝子がある群れは生き残りやすいからだ。仲間を守らない遺伝子は孤立し、すぐに死滅したのだろう。
つまり、進化とは結果論なのだ。対して、人間社会をより良くするためには結果論ではいられない。みながより幸福に生きようとした時、幸福になるための計画やシステムが必要になる。だから、人々は自分たちのもつ遺伝子と矛盾せず、できるだけ全員が幸福になるためのルールを必要とした。だから、倫理が生まれた。
だが、この倫理が人類の幸福と矛盾し始めている。いや、し始めている、っていうのは錯覚で、ほんとうは最初から矛盾しているんだけれど。
自然淘汰は倫理的ではない
当然ながら、生物的にオスとメスは区別される。小型の配偶子を持つ方がオスであり、大型の配偶子を持つ方がメスだ。それぞれが別の遺伝子を持つ固体が、その遺伝子を交換することで変異が生じやすくなり、結果的に多様化し、生存に有利になったという背景がある。
もちろん、複数の精子を混ぜても赤ん坊にはならないし、卵子でも同様である。特殊な技術を用いて生まれたのでない限り、私にもお前にも、生物学的なメスの親とオスの親がいるはずだ。
一旦、社会的性の話は置いておく。とうぜん遺伝子は変異を起こすので、オスと交尾することを望むオスが生まれたり、メスと交尾することを望むメスが生まれることがある。これらの遺伝子は次世代に残らないため、自然界では淘汰された。
だが、現代社会では話が変わってくる。次世代を残したい欲求はとうぜん誰にでも備わっているし、愛する人と結ばれたいという欲求も人間の本能だ。(これらを持たない人もいる。このくらい言わなくても、ここまで読んだ人には理解してほしいが、書かないとわからない人もいる)
その幸福を社会が担保するのは倫理的に正しい。私もそうあるべきだと思うし、彼ら彼女らが幸福になることで、社会の幸福の総量が増えこそすれ、減ることはないだろう。
この辺まではまあ、多くの人が同意できると思ってこの文を書いている。
もう少し踏み込んだ話をしよう。社会には精神的な疾患を抱える人がいる。
どこまでが俺の責任で、どこからがお前の責任なんだろう
精神や肉体にハンディキャップを抱えた人間にとって、社会的なサポートは必須だ。私も怪我で車椅子を余儀なくされたことがあったが、まわりのサポートなしでは社会生活を送ることは困難だっただろう。たった一ヶ月ですらそうなのだから、日常的に車椅子の生活を余儀なくされている人々の苦労は察するに余りある。
たとえば私は階段でも、エスカレーターでも、エレベーターでも、どれでも使うことができる。一方、車椅子で生活する人はエレベーターしか使えない。であれば、このうちどれかひとつしか採用できない場合、エレベーターを採用したほうがいいと言える。
では、昔から残っているビルがあったとしよう。このビルは四階建てだが、階段しかない。この建物の四階をなにかの事務所にしたとしよう。ところがそこで、その事務所に入る社員の中に、車椅子の人がいることが後になって発覚した。
エレベーターを新しく備え付けるには、お金がかなりかかる。それではビルの経営が立ち行かないので、エレベーターをつけることはできない、とビルの持ち主は言った。
つまり、これは車椅子の人によって生じたコストを、誰が持てば良いのだろう、という話だ。生まれつき足が不自由な彼が、その生まれつきが理由でコストを被るのは馬鹿な話だ、というのが現在の倫理の結論であり、これには私も同意できる。
だが、ビルの持ち主がコストを支払うべきだろうか。彼にも彼の生活があり、古いビルだし、ビルの収入がなくなれば明日の食い物もないかもしれない。だとしたら、車椅子の人がいない会社の事務所として使ってもらって収入を得たほうが、彼にとっては合理的だ。世の中にはエレベーターのあるビルだっていっぱいあるんだから、そっちを探してくれ、と思うかもしれない。
現状、これは「社会」が受け持つコストである、ということになっている。バリアフリーを進める建物には税金から補助を出す、という形にしたら、社会全体でハンディキャップを埋めるために、支えることができる。うん、良い着地点のように感じる。
話を戻そう。精神的な疾患はシロクロはっきりつかないものも多い。グレーゾーンが広がっていて、軽いADHDから、社会生活に明確に支障が出るADHDまである、みたいに。
たとえば、時間を守るのが難しいADHDの人がいる。かなり重いADHDで、社会のサポートが必須だ。対象的に、軽い症状で、頑張ればまあ、時間を守れるという人もいる。
どこからサポートが必要で、どこからが自己責任になるのだろう。
自己責任、ということはコストをその当人がもつ、ということだ。
たとえば、疾患と認められるレベルではないけれど、頭の悪い人がいる。
記憶力には遺伝が関わってくる。同じ努力量でも物覚えが悪すぎて、大学に行くのが現実的じゃない、っていう人間もいる。
彼らの就職先がかなり狭くなるのは、感覚的にもわかると思う。現状、彼らは社会的に補助されない。彼らのコストは、彼らが自己責任でもっている。物覚えが悪いから、仕事が制限される。
それは自己責任だろう、と思ったお前。ではさきほどの車椅子の彼の例と、頭の悪い彼の例。何が違うのだろう。頭の悪い彼はめちゃくちゃ努力したら大学に行けたかもしれない? だが、車椅子の彼がめっちゃ頑張って手で階段を登ったり、ローンを組んだりしてエレベーターを敷設しないことは自己責任だろうか? どこに違いがあるだろう。
性自認の話もそうだ。生まれつき体と心の性が違うことによって、社会的に居場所がないことはつらいことだ。では、彼らのコストを払うのは誰だろう。
人が傷つくことのコストは、税金で補うのは困難に思える。ルールや倫理によって補う必要があることだ。だが、ルールや倫理はお金のように分散できない。その人と向き合う個人が補わなければいけない。
自分と違う人を思いやるのは、むずかしい。家族や友人同士ですらそうなのに、たとえば今日駅ですれ違った他者を気遣うのはもっとむずかしい。
たとえばHSPの新人に気を使う上司は、今まで使っていなかったコストを支払ってその新人と向き合うことになる。けれど、上司が気を使わなければ、そのコストを支払うのはHSPの新人だ。
倫理的には、上司がHSPの新人に気を使うべきだ。だが、そうなると今度は上司は「無用なコストがかかるからHSPの新人は雇わないことにしよう」となってもおかしくない。
現に、頭の悪い彼の例では、彼は「頭脳労働ができないから、そのような職場では雇われない」という形でコストを支払うことになっている。そうなることが、正しいことだろうか。
ハンディキャップを補うためのコストは、誰かが支払わなければいけない。でも、誰が?
どこまでが私の責任で、どこからがお前の責任なんだろう。倫理はこれを解決できない。
お前は男でも女でもなく、お前だ。
私と大谷翔平に関係はない。よって、日本人として彼を誇りに思うことはしない。だが、彼を称えることはできる。大谷翔平、あなたはすごい。
逆に。逆に私が日本人であることにアイデンティティを持っていたらどうだろう。努力しなくても、他の日本人がすごいことをしただけで鼻が高くなるだろう。大谷翔平の活躍を見るだけで幸福になり、お手軽に気持ちよくなっていたかもしれない。
もしも私が生まれつき足が不自由だったら、どうだろう。もう二度とあの生活はしたくない、と感じる。世の中は思ったより優しかった。みんなエレベーターに乗せてくれるし、駅では駅員さんが手伝ってくれるし、通れない段差があると、手伝ってくれた人も居た。
あの優しさ……つまり、私が払うべきコストを支払ってくれた人たちがいたからこそ、私は生存できた。だから私は「車椅子の人に親切にするべき」という倫理に助けられたとも言える。この倫理は守られるべきだと、私は必死になって権利を主張するだろう。
だから、社会的マイノリティの方々が、どれだけ切実に社会のサポートを欲しているかはわかる。
身体的なハンディキャップは、まだわかりやすかった。手や足、目や耳、それが使えない不便さは、わかる。わからないことも当然あるだろうけど、できないことはある程度明確だ。
だが、精神は? 身体に影響が出ないものは見てわからないし、本人にしか辛さがわからない。(ちなみに、見てわかるものもある。だが今はその話はしていない)
つまり、マイノリティであることで「サポートにタダ乗りできてしまう」こともあるのだ。
頭の悪い彼の例を思い出して欲しい。彼の例で、たとえば「知能が一定以下の人には補助金を出して社会でサポートしよう」としたとする。そうすると、「知能が一定以下」と認められることにインセンティブが生じてしまう。ほんとうはそれなりの人が、わざと頭の悪いふりをして、サポートを受けることができる。
税金なら、まだいい。HSPの新人と上司の例では、特に診断も受けず、「なんとなく私は傷つきやすいな」と思っただけでそう申告し、一方的に上司にコミュニケーションのコストを押し付けることも可能になってしまう。(精神的なハンディが社会的に受け入れられづらい背景には、この言ったもん勝ち状態を社会が克服できていないことも一因にある)
つまるところ、だ。男女平等がうまく行かず、LGBTも排斥され、精神疾患もちは煙たがられる今の社会は、何が問題なのだろうか。
そう、大谷翔平と同じ日本人であることを誇りに思っているお前が問題なのだ。
「私は男だから貧困なのに誰も助けてくれない」
「私は女だから子供を産んだだけで出世できない」
「私は性的マイノリティだから社会に居場所がない」
ハンディキャップは、様々だ。重いもの、軽いものそれは秤が違うから比較ができない。辛さは本人だけのものだ。
だが、その辛さと所属を結びつけることで、もっと苦しむ人間を生み出しては居ないか。お前はお前である。本来お前よりも苦しむ人間を救うために社会が生み出してくれたコストを、お前が「所属」を盾に吸い取ることによって、より苦しい人間を救えていないなんてことはないか。
胸に手を当てて考えてみてほしい。所属を使って得たコストは、どこかの誰かが、善意で支払ってくれたコストだ。お前より切実に苦しい人間が、確かに居る。その誰かを救うためのコストだ。お前はそれを横からかすめ取る泥棒でしかない。
お前は男でも女でも日本人でも大谷翔平でもない。だが、男や女であり日本人であり、大谷翔平かもしれない。大谷翔平だったらすみません。こんなしょうもない文章のダシとして使ってしまいました。心から尊敬ご活躍をお祈りしています。
お前はお前だ。お前なのだ。
お前であることを捨て、男や女や日本人であろうとするとき、本当にお前はそれを必要としているのか? お前のせいで助からない人間を想像したか?
まあ、これを真に受けるのは苦しんでいる当人で、タダ乗りしてるやつは箸にも棒にもかからず権利を主張し続けるだけだろうから意味はないんだろう。だからこの文章には書きなぐり以上の意味はない。
私も、『お前』になっていない保証がない。その時は私を殺してくれ。
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