見出し画像

東海林直人のゴロテマ日本史◇近世15(北越雪譜~卸売市場)

◇近世§141.江戸民俗学2書(『菅江真澄遊覧記』『北越雪譜』)◇C

[ゴロ]悩み東北/遊覧済ます北越の/嫌みな牧師
(1783年・東北地方)(真澄遊覧記)(北越雪譜)(1837年・鈴木牧之

[句意]悩みだった東北遊覧を済ましたよ、北越地方の嫌みな牧師が、という句。

[point]
1.菅江真澄1783(天明3)年から東北地方を旅し『菅江真澄遊覧記』にまとめた。また鈴木牧之は『北越雪譜』を1837年に出版した。
[解説]
1.菅江真澄(1754~1829)は、三河国出身、家は神社関連。国学、漢学、本草学を修める。1783(天明3)年から40年にわたって東北各地を旅し、その見聞を紀行日記『菅江真澄遊覧記』として残した。真澄による描かれ添えられた写生図とともに江戸後期東北の歴史地理を浮き彫りにしている。
2.鈴木牧之(1770~1842)は越後の縮(ちじみ)仲買商にして、随筆家、文人。家業のため越後と江戸を往復し、江戸文人たちと交わる。雪国の習俗と伝奇を絵入りの読み物とした『北越雪譜』(1837年)を出版。雪国の百科事典として当時の人びとにもてはやされた。

2019明治大・文2/13:「
問7.下線部(エ)商人や文人の全国的な交流、出版・教育の普及、交通網の発達によりに関連した説明として誤っているものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
 ① 尾張国知多半島を拠点とする内海船は、買積をおこない、瀬戸内海沿岸と江戸との間を運航した。
 ② 買積をおこなう北前船は、日本海沿岸を北海道・東北から下関を経て上方まで運航した。
 ③ 国学者菅江真澄は北陸地方を旅し、紀行日記『北越雪譜』を著した。
 ④ 医師シーボルトは長崎郊外の鳴滝に塾を開き、医学などの講義と診療をおこなった。」
_________________
(答:問7③×菅江真澄→鈴木牧之)〉

2017学習院大・法:「
 アイヌや琉球にも入れ墨の風習があり、しかもむしろ女性がするものであった。江戸時代、[ 2 ]は、その著書『蝦夷志』の中で、アイヌの婦人について、「額面手臂は皆黥して花卉状と為し、種種繊巧なりと云ふ。是れ幼時に母の刺す所なり」と記している。伝聞でなく、みずから実地に旅行してアイヌ文化を見聞した者としては、[ 3 ]を挙げるべきだろう。蝦夷地や東北地方を歩きまわって詳細な『[ 3 ]遊覧記』を著した。これは文化人類学の先駆的著作ともいうべきもので、その中で入れ墨にも言及している。
_________________
(答:2新井白石、3菅江真澄)〉

2015早稲田大・社会科学:「
 経済の発展と文化の繁栄は庶民の生活を一変させた。(4)余暇を手に入れた人びとは、従来の振興を目的とした旅に湯治や物見遊山の要素を取り入れた。その影響で、寺社のあり方も変化した。
問4 下線部(4)に関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。
 イ 地方の寺社は都市に出張して出開帳を行った。
 ロ 寺社は修繕費を調達するために、月の出を拝する庚申待を催した。
 ハ 1830年の御蔭参りに加わった人は数百万人に達した。
 ニ 鈴木牧之は『北越雪譜』を刊行し、雪国の実情を伝えた。
 ホ 『菅江真澄遊覧記』は四国八十八カ所を巡礼した記録である。」
_________________
(答:問4ロ×・ホ× ※ロ×民間の行事で寺社とはとくに関係ない、ホ×東北各地を旅した記録)〉

◇近世§142.柄井川柳の覚え方(『誹風柳多留』)◇C

[ゴロ]配布難儀たるい/辛い川柳
誹風柳多留(はいふうやなぎだる))(柄井(からい)川柳

[句意]配布するのが難儀でかったるい、この辛口川柳は、という句。

[point]
1.『誹風柳多留』は柄井川柳撰の川柳句集。
[解説]
1.柄井川柳(1718~1790)は、浅草の名主の家の生まれ名主を継ぐ。前句付けの点者(評者)として名声を確立した。
2.「川柳」は18世紀半ば、前句に対し、五七五の長句(附句)をつけて、両句の間に醸し出されるウィットやユーモアに風刺(滑稽、穿ち(うがち)、軽み(かるみ)の3要素)を競い合う短詩文芸。前句から切り離された長句を川柳と呼ぶようになった。江戸川柳のうちでも、柄井川柳が評に当たった1757年(宝暦7)から1789年(寛政元)にいたる33年間の選句を、とくに「古川柳」と呼ぶ。
3.柄井川柳が、例えば「切りたくもあり切りたくもなし」という前句を発表し、これに対して各町内に投稿場所を設けて投句を募る。「泥棒を捕えてみれば我が子なり」といった句が応募してくる。年10回くらいの募集機会があり、1回16文(500円ぐらい)で応募できる。優秀作が柄井川柳の撰で次号の『誹風柳多留』に掲載され若干の商品も出るという仕組み。江戸川柳のうちでも、柄井川柳が評に当たった1757年(宝暦7)から1789年(寛政元)にいたる33年間の選句を、とくに「古川柳」と呼ぶ。
4.「川柳」は我が国で唯一、個人名が文芸の名称となっている。当時、数万の江戸市民が川柳を楽しんでいたと推定される。18世紀後半と言えば、アメリカやヨーロッパでは戦乱や虐殺が絶えなかった時代、この時代に優雅な遊びに我が国の市民が興じていたことは、誇るべきことである。

2016法政大・法国際キャリア:「
問1「さまざまの事おもひ出す桜かな」。これは、江戸時代に作られた[   ]である。
 ア今様 イ発句(俳諧)
 ウ小歌 エ川柳 オ狂歌
 カ狂詩」
_________________
(答:2)〉(答:問1イ〇)〉

2004大学入試センター試験追試:「
問4 下線部c政治や社会を風剌する川柳や黄表紙に関して、当時の世相を風刺した次の川柳の背景について述べた文として正しいものを、下の1~4のうちから一つ選べ。
 役人の子はにぎにぎをよく覚え(『誹風柳多留』)
 1 これは、意次の時代に銀座が設立されたことを詠んだものである。
 2 これは、意次の時代に賄賂が横行したことを詠んだものである。
 3 これは、定信の時代に武道が奨励されたことを詠んだものである。
 4 これは、定信の時代に学問が奨励されたことを詠んだものである。」
_________________
(答:2)〉

ここから先は

19,833字 / 7画像

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?