東海林直人のゴロテマ日本史◇近世13(五街道の合流地点~文人画)
◇近世§121.五街道の合流地点の覚え方(五街道③)◇B
[ゴロ]美し(うつくし) スワン/を空撮
(宇都宮)(下諏訪)(草津)
[句意]美しいスワンを空撮した、という句。
[point]
1.中山道は東海道に草津で合流、甲州道中は下諏訪で合流、日光道中と奥州道中は宇都宮まで重複していた。
[解説]
1.中山道は起点の江戸日本橋から草津で東海道に合流し終点京都まで道を共有。碓井と木曽福島に関所があり、下諏訪(甲州道中終点)で甲州道中が合流してくる。
2.甲州道中は、小仏に関所があり、下諏訪で中山道に合流する。
3.日光道中と奥州道中は栗橋に関所があり、2つは宇都宮で分かれ、奥州道中は白河に至る。日光道中の終点はもち日光。
〈2020早稲田大・文化構想2/12:「
問5 下線d五街道にかかわる記述として正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 東海道は、江戸と京都の間に53の宿を置き、各々百人、百疋の人馬を配した。
イ 中山道は、江戸と佐渡とを結び、正徳期以降は中仙道と記された。
ウ 日光道中は、元禄年間に日光東照宮の再建を機に整備された。
エ 甲州道中は、江戸と善光寺の間に45宿を置いた。
オ 奥州道中は、一部、日光道中と重複し、北陸・出羽方面に到る道は北国路と呼ばれた。
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(答:問5ア〇 ※イ×佐渡→京都、ウ×元禄→寛永、エ×善光寺→下諏訪、オ×北国路→羽州街道)〉
〈2018早稲田大・文:「
問1.下線a五街道に関して、誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア.いずれも江戸の日本橋を起点としている。
イ.甲州道中の江戸から下諏訪までは、中山道と同一の行程である。
ウ.東海道は、歌川広重によって、その風景が浮世絵に描かれた。
エ.東海道の新居や中山道の木曽福島などに関所が設けられた。
オ.17世紀なかば以降、道中奉行によって管轄された。」
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(答:問1イ×※日本橋から出発、別のルートで中山道に下諏訪で合流)〉
〈2017法政大・営人間文:「
問1.下線部a五街道の説明として誤っているものを、以下のア~オのなかから一つ選べ。
ア.東海道には、江戸・京都間に53の宿駅があり、東海道五十三次(継)といわれた。また大津から大坂に至る京街道の4宿を含める見方もある。
イ.中山道は、江戸より関ケ原まで55宿であり、その先の守山で東海道と合流し.京都まで59宿ともいわれる。
ウ.甲州道中は、江戸日本橋から八王子・甲府をへて、下諏訪で中山道と合流した。
エ.日光道中は、江戸・日光間に21の宿駅があり、途中に利根川の渡船場である房川渡があった。
オ.奥州道中は、江戸と奥羽地方を結ぶ幹線路で、宿駅は宇都宮の先から10の宿駅があった。千住・宇都宮間は日光道中を兼ねた。」
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(答:問1イ×守山→草津)〉
〈2014立教大・現心社会コミュ福:「
問8.これ中山道に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.新居に関所を設けた
b.江戸~京都間に53宿をおいた
c.江戸~草津間に67宿をおいた
d.小仏に関所を設けた」
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(答:問8c○ ※a×新居は東海道、bこれは東海道、d小仏は甲州街道)〉
《付録①》東海道の覚え方 ◇B
[ゴロ]取替えた(とっかえた)/タイツの品(ひん)が/あら嫌だ(いやだ)パー子ね
(東海道)(大津(おおつ)・品川(しながわ))(新居(あらい)・箱根)
[句意]タイツの品(ひん)が悪くてあら嫌だパーな子みたいね、というナンセンスの句。前日発表した句が気に入らず、ひねくり回して出来た快作ならぬ怪作です。「大津(おおつ)」を(たいつ)「品(しな)」を(ひん)としていますので、注意して下さい。「100人・100疋」ははずしました。
[解説]
1.東海道は江戸日本橋から京都三条大橋まで。この間53宿場町(品川~大津)があり、伝馬役は各宿場100人・100疋(ぴき)で、関所は、箱根と新居にあった。
《付録②》中山(仙)道 の覚え方◇B
[ゴロ]うすい基礎と/腐す(くさす)は/中山道
(碓氷(うすい)・木曽福島)(草津・下諏訪(しもすわ))(中山道)
[句意]基礎部分が(手抜きで)薄いと腐すのは中山道だ、という句。中山道の出題率が高いので、まずこの句を覚えよう。
[point]
1.中山道は、碓井・木曽福島に関所があり、草津で東海道に合流し、下諏訪で逆に甲州街道が合流してくる。
[解説]
1.中山道は起点の江戸日本橋から草津で東海道に合流し終点京都まで道を共有し、碓井と木曽福島に関所があり、下諏訪(甲州道中終点)で甲州道中が合流してくる。
2.甲州道中は、小仏に関所があり、下諏訪で中山道に合流する。
3.日光道中と奥州道中は栗橋に関所があり、2つは宇都宮で分かれ奥州道中の方は白河に至る。日光道中の終点はもち日光。
〈2014立教大・現代心理社会コミュ福祉:「
徳川家康は京都中心の交通体系を江戸中心に再編し、1601年には東海道の宿駅を定め伝馬制度を実施した。さらにこれを8中山道などにも及ぼし、幕府が直接管理する五街道を整備し、1659年に( チ )奉行をおいて管轄させた。また民間の商品輪送が増えたため脇街道と呼ばれる主要街道が全国的に整備された。五街道や脇街道には宿駅がおかれ、治安維持のために関所が設けられた。伝馬制度は旅行者には多くの便益を与えたが、人足や馬を徴発される宿や助郷村の負担は大きかった。
問8.これ中山道に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.新居に関所を設けた
b.江戸~京都間に53宿をおいた
c.江戸~草津間に67宿をおいた
d.小仏に関所を設けた」
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(答:チ道中、問8c〇※江戸~草津間に67、東海道と合流後共通の2宿を加え全69宿、ab×東海道、d×甲州道中)
〈2012同志社大・文経済:「
物資の流通には交通網の確立を必要とする。幹線道路としては江戸に通じるいわゆるイ五街道をはじめとして、全国各地にウ街道筋が開発・整備されるようになる。エ街道筋には宿駅を設けて人馬を常備し、旅籠・一里塚などを整え、各領国を横断する人と物との往還路となった。
問イ.五街道の1つで、江戸日本橋から浦和、高崎、軽井沢、塩尻、木曾福島、垂井などを経て草津に至る街道の名称を記せ。
問ウ.脇往還の1つで、追分宿から小諸、善光寺、柏原などを経て春日新田を右折し出雲崎に至る街道の名称を次の1~4の中から選べ。
1伊勢街道 2中国街道
3北国街道 4山陰道
問エ.宿場において輸送荷物の継ぎ送りや人馬の継ぎ立ての差配などの業務を行った事務所を何というか、その名称を記せ。」
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(答:イ中山道、ウ3、エ問屋場)〉
◇近世§122.角倉了以の覚え方(河川開発)◇B
[ゴロ]スミの療医は/背高(せいたか)婦人
(角倉了以(すみのくらりょうい))(高瀬川(たかせがわ)・富士川)
[句意]隅にいらっしゃる診療医は背が高い婦人である、という句。語順は「背が高い」がふつうだがゴロのため「高い背の」すなわち「高背」としている。
[point]
1.角倉了以は、富士川・高瀬川を開削して舟運(しゅううん)を開いた。
[解説]
1.角倉了以(1554~1614)は、京都出身の初期豪商の一人で、朱印船貿易と河川土木事業に活躍した。まず幕府の許可を得て、京都保津川下流の大堰(おおい)川の開削に成功。これによって、丹波の山奥からの物資搬送を可能にした。続いて富士川、天竜川の通船工事に成功。もっとも著名なものは晩年の高瀬川開削。京都から細い運河高瀬川を掘って淀川へつなぎ、大坂までの水運を飛躍的に発展させた。いずれも莫大な私財を投入しているが、通船料による収益を独占することで莫大な利益を上げた。
〈2020法政大・経済社会現福2/9:「
問4 下線部(d)豪商に関連して、近世初期に活躍した豪商のうち、京都を根拠地とした人物として正しいものを、以下のア~オから二つ選べ。
ア 角倉了以 イ 山田長政
ウ 高三隆達 エ 末吉孫左衛門
オ 茶屋四郎次郎」
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(答:問4ア・オ)〉
〈2019学習院大・経済法2/6:「
江戸時代においては、経済の発展とともに、さまざまな商人が活躍した。たとえば、徳川家康は、糸割符制度を導入し、輸入生糸の一括購入・分配を糸割符仲間に任せたが、京都の豪商(1)〔イ今井宗薫 ロ島井宗室 ハ角倉了以 ニ千利休 ホ末吉孫左衛門〕は、その仲間のひとりであり、富士川などの整備でも著名である。」
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(答:(1)ハ)〉
〈2016明治大・情報:「
問1 下線部ア)17世紀後半の時期の説明として、もっとも正しいものを、つぎの1~4のうちから1つ選べ。
1.幕府は、糸割符制度を設けて、貿易統制を始めた
2.上方を拠点とする井原西鶴が『好色一代男』を刊行した
3.角倉了以は西廻り航路を整備し、北前船が就航しはじめた
4.江戸の山東京伝が『仕懸文庫』を著した」
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(答:2○ ※1×糸割符制度(1604)、3×角倉了以→河村瑞賢、4×山東京伝(1761~1816))〉
〈2016上智大・法済総人:「
問3 次の文章は、都市と町衆について説明したものである。文中の空欄(ア~オ)に入る適切な語句をあとの語群から1つずつ選びなさい。
都市のなかには、富裕な商工業者である町衆を中心とした自治的団体である町が生まれた。町はそれぞれ独自の町法を定め、住民の生活や営業活動を守った。京都でも、有徳人などとよばれた金融業者の( ア )や酒屋などの商人が中心になって町衆の文化が育った。町が集まって町組という組織がつくられ、さらに複数の町組が集まって、公家・武家が多い上京と商工業者の町である下京という大きな惣町が形成され、上京と下京は( イ )通りでむすばれていた。町組は、町衆のなかから選ばれた( ウ )によって自治的に運営され、応仁の乱で荒廃した京都は、これらの町衆によって復興され、御霊会として行われていた( エ )祭も、町衆たちの祭として再興された。その経済力は近世にも衰えることはなく、嵯峨の( ア )出身で、朱印船貿易に従事し、水路の開発にも貢献した( オ )や、幕府の呉服を扱い朱印船貿易でも活躍した茶屋四郎次郎などが出た。」
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(答:ア土倉、イ室町、ウ月行事、エ祇園、オ角倉了以 ※原問題には30項の選択肢あり)〉
〈2015大学入試センター:「
問2(中略)近世の西日本の流通に関して述べた次の文X・Yと、それに該当する人名a~dとの組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから1つ選べ。
X 大坂と東北地方とを結ぶ、西廼り航路(海運)を整備した。
Y 高瀬川の開削を行い、内陸部の河川舟運の発達に寄与した。
a河村瑞賢 b紀伊国屋文左衛門
c田中勝介 d角倉了以
1.X-a、Y-c
2.X-a、Y-d
3.X-b、Y-c
4.X-b、Y-d」
_________________
(答:2○)〉
〈2014早稲田大・国際教養:「
問10 下線部gの人物角倉了以について、正しい説明はどれか。すべて選べ。
ア 幕府の呉服師を務めた。
イ 朱印船を派遣した。
ウ 西廻り航路・東廻り航路を開通させた。
エ 菱垣廻船を就航させた。
オ 高瀬川・保津川などの水路を開削した。」
_________________
(答:問10イ〇・オ〇)〉
〈2014明治大・国際日本:「
問7.農産物の全国的な流通が盛んになっていく条件として、交通網の発達は不可欠であった。江戸時代の交通網の発達について述べた以下の文章A~Cについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを、下記の1~4の中から選びなさい。
A:東海道、中山道、山陽道、甲州道中、奥州道中の五街道は、重要な幹線道路として幕府の直轄下に置かれ、17世紀半ばから道中奉行によって管理された。
B:五街道や脇街道などの主要な街道には宿駅が多く置かれ、流通の要所となった。宿駅には、本陣、旅籠、問屋場などが設けられた。
C:大坂・江戸間では菱垣廻船、樽廻船が運航するようになり、17世紀後半には江戸の商人だった角倉了以によって東廻り海運・西廻り海運が整備された。
1.A〇、B×、C〇
2.A×、B× C×
3.A〇、B〇、C×
4.A×、B〇、C×」
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(答:4 ※A×山陽道→日光道中、C×:角倉了以→河村瑞賢)〉
〈2014立教大・現代心理社会コミュ福:「
江戸時代には水上交通もいちじるしい発達をとげた。大量の物資を安価に運ぶには、陸路よりも海、河川、湖沼などを利用した水上交通の方が適していた。瀬戸内海は物資や旅行者に多く利用されたが、江戸~大坂間をはじめ廻船による貨物の運搬は盛んで河川・湖沼も運行の可能なかぎりは利用された。( リ )は富士川や高瀬川などを開墾し、河川舟運をひらいた。海上交通では、17世紀前半から菱垣廻船が運行を開始し、その後樽廻船の運行も始まった。」
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(答:リ角倉了以)〉
〈2012同志社大・文経済:「
問キ.角倉了以が大堰川を開削して発達した、丹波より京都への輸送水路を何と呼ぶか、次の1~4の中から選べ。
1.高瀬川水運 2.淀川水運
3.保津川水運 4.富士川水運
_________________
(答:問キ3)〉
〈2011近畿大・法済営:「
問5 下線部b角倉家に関連して、角倉了以についての文として適当でないものはどれか。次のうち一つを選べ。
1 朱印船貿易をおこなった初期豪商であった。
2 樽廻船の航路を整備した。
3 高瀬川の開削をおこなった。
4 富士川の開削をおこなった。
_________________
(答:問5-2×)〉
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