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東海林直人のゴロテマ日本史◇近現3(五榜掲示~征韓論)

◇近現§21.五榜の掲示の覚え方◇B


[ゴロ]牢屋とは/恨みの/五榜の掲示
(1868年)(浦上(うらかみ)教徒弾圧事件・1873年)(五榜の掲示)

[句意]牢屋に入れるとは民衆にとって恨みと涙の五榜の掲示だ、という句。

[point]
1.五榜の掲示(1868年)で浦上教徒事件が起き、1873年キリスト教は黙認された。
[解説]
1.政府は、1868年、五箇条の誓文交布の翌日、全国の民衆に向けて五榜(ごぼう)の掲示を掲げた。それは君臣・父子・夫婦間の儒教的道徳を説き、徒党・強訴やキリスト教を改めて厳禁するなど、旧幕府の対民衆政策をそのまま引き継いでいた。
2.キリスト教に対しては、新政府は旧幕府同様の禁教政策を継続し、長崎の浦上(うらかみ)や五島列島の隠れキリシタンが迫害を受けた。しかし、列国の強い抗議を受け、1873(明治6)、ようやくキリスト教禁止の高札(こうさつ)が撤廃され、キリスト教は黙認された。
3.この浦上信徒は隠れキリシタンだったが、1865(慶応元)年、大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)の落成を機にここを訪ねたフランス人宣教師に信仰を告白して明るみに出た。しかし、明治政府は神道国教化の政策をとり、長崎・浦上の信徒3300人強を捕縛し、各藩に分けて配流した。配所では改宗を強要する拷問が行われ、600人強が死亡した(浦上教徒弾圧事件)。

2019早稲田大・文化構想2/12:「
 キリスト教の信仰は、明治の初期には禁じられたままであった。幕末の大浦天主堂の落成を契機に、信仰を告白する信者が相次いだため、新政府は長崎の[ D ]で多くの信徒を捕え、流罪に処した。いわゆる[ D ]教徒(弾圧)事件である。この処置に対する列国の抗議を受け、1873年、政府は切支丹禁制の高札を撤去し、布教を事実上黙認した。
問10.空欄Dに該当する地名はどれか。1つ選べ。
 ア.平戸 イ.浦上
 ウ.島原 エ.対馬 オ.高島」
_________________
(答:問10イ)〉

2015関西学院大・神社済教:「
問8 次の文章a・bをよく読み、各々の正誤を判定し〇×で示せ(問題形式変更…東海林)。
 a.明治新政府は、五箇条の誓文公布に続き、五榜の掲示を出した。五榜の掲示には、キリスト教の信仰を容認するという新たな政策が示されていた。
 b.明治政府は、版籍奉還を命じ旧大名を旧領地の知藩事に任命した。しかし、その後、廃藩置県で知藩事は罷免され、東京に住むように命じられた。」
_________________
(答:a×キリスト教は禁止、b○)

2013慶応大・法:「
 政府はまた、徳川幕府の政策を引き継ぎ、キリスト教の弾圧を続けた。大浦天主堂の[   ]人宣教師に信仰を告白したことをきっかけとして、隠れキリシタンとして生活してきた長崎浦上のキリスト教徒たちが公然と信仰を表明するにいたるが、これに対して政府は、数千人の信徒をとらえ各藩に流罪とした。結局、このようなキリスト教禁止の政策も、諸外国からの抗議をうけ、後に事実上撤廃されることになる。」
_________________
(答:フランス)〉

2012同志社大・文経済:「
 そしてキリスト教に対しては、明治政府は( ア )を出し、キリシタン禁制の方針を継承することを宣言した。それゆえ日本最初のカトリック教会堂である( イ )が1865年に創建されたとき、フランス人宣教師に信仰告白した長崎の隠れキリシタンは明治政府によって捕らえられ流罪にされる事件が起ったが、この弾圧事件に対する外国から抗議を受け、政府は( ウ )年にキリシタン禁制の高札を撤去した。」
_________________
(答:ア五榜の掲示、イ大浦天主堂、ウ1873年)〉

2012立教大・文学部:「
 明治維新政府がそれ(キリスト教を取り巻く政治的な環境は大きく変わっていた)にもとづいて出した禁令がふくまれているものを、次のa~dから1つ選べ。
 a.王政復古の詔
 b.五箇条の誓文
 c.五榜の掲示 d.政体書」
_________________
(答:c)〉

五榜の掲示・明治政府の内実

◇近現§22.明治初期立法府の変遷の覚え方(太政官制下5機関年代順)◇B

[ゴロ]正義感からのカキコ主義(さ)げろって
議政官(ぎせいかん)の下局(かきょく)・議所(こうぎしょ)・集議院)(院(さいん)・老院・国議会)
[句意]正義感からの書き込み主義を下げろって、やめろって言ってるんだ、という句。何でも書き込みする癖、主義を非難しているところ。

[point]1.立法府にあたる部署は議政官下局公議所→ 集議院→ 左院→ 元老院→ 帝国議会と変遷。

[解説]

1.1868(明治元)年閏4月に、政体書を制定して政府の組織を整えた。すなわち、国家権力を太政官とよぶ中央政府に集めた。政体書は、アメリカ合衆国憲法を模倣した三権分立制をとり入れ、高級官吏を4年ごとに互選で交代させるなど、多分に形式的とはいえ、欧米的な近代政治の体裁をとった。実際には、太政官における立法と行政との区別は明瞭ではなく、官吏の互選も1回実施されただけで終った。
2.立法機関とされた議政官は当初、議定・参与からなる上局と、各府県・各藩選出の貢士からなる下局から構成される二院制だった。
3.版籍奉還後の、翌1869(明治2)年6月、太政官2官6省制になり、下局は公議所となり、さらに集議院へと再編成された。
4.1871(明治4)年7月、太政官の規模を拡充し正院・右院・左院の三院制と再編成された。左院は立法についての諮問機関で、官選の議員で構成。1874(明治7)年1月、民撰議院設立建白書は左院に提出されている。
5.1875年の大阪会議での大久保利通・木戸孝允・板垣退助らの妥協によって漸次立憲政体樹立の詔が出され、左院・右院にかわり元老院・大審院がおかれ三権分立の形式がとられた。
6.1890年、帝国議会開設により元老院も廃止された。

2019中央大・法2/12:「
 こうして発足した新政権は、1868年閏4月に国家権力を中央官庁のもとに集中させるとともに、[ あ ]の制度を模し、形式的ではあるが三権分立制を取り入れた。その後、1871年に断行された廃藩置県と同年に行われた官制改革の結果、中央政府機構は[ い ]、[ う ]、[ え ]の3つの機関から構成されるとともに、その中枢機関である[ い ]のもとに各省をおく制度に改められた。これらのうち、立法上の諮問機関としての役割を担うことと定められた[ う ]は、その後、1875年の大阪会議における議論の結果として廃止され、立法に携わる政府機関として新たに[ ② ]が設けられた。[ ② ]は帝国議会が創設されるまで、新法の制定と旧法の改正を審議することを基本的な役割とした。」
問1 文中の空欄[ ② ]に入るもっとも適切な語・人名を漢字で答えなさい。
問4 文中の空欄[ あ ]に入る国の名前を記せ(東海林改)。
問5 文中の空欄[ い ]、[ う ]、[ え ]に入る語句の組み合わせのうち、正しいものを1つ選べ。
 a.い:行政官 う:議政官 え:刑法官
 b.い:総裁  う:議定  え:参与
 c.い:正院  う:左院  え:右院
_________________
(答:問1②元老院、問4アメリカ、問5c)〉

2015同志社大・社会:「
(1)慶応4年(1868)閏4月に政体書が制定され、政府組織として太政官制が採用された。その中で立法機関とされたa議政官は上局と下局によって構成されたが、下局は明治2年(1869)3月には公議所として再編成された。しかし同年7月には早くも公議所は廃され、代って( b )が設置されたが、公議所よりも審議内容は限定された諮問機関的なものとなり、やがて明治4年(1871)7月に設置された左院に引き継がれることになった。【設問a】下線部aに関して、議政官が創立された当初、上局は議定・参与によって構成されたが、下局は各府県・各藩から選出された議事員によって構成されていた。この議事員の名称を漢字で記せ。
【設問b】文中の空欄( b )に入る適当な語句を漢字で記せ。」
_________________
(答:a貢士、b集議院)〉

2013中央大・法:「
 1874年、[ 1 ]専制を批判した1)民撰議院設立建白書が提出されると、大きな反響をよんだ。民権運動が活発化すると、大阪会議がひらかれ、[ 2 ]ならびに[ 3 ]の復職と立憲政体をめざすことが決まった。これを受けて、2)漸次立憲政体樹立の詔が出された。他方で、政府は讒謗律・新聞紙条例等を制定して言論統制を強めた結果、民権運動は一時衰退した。
問1 文中の空欄[1~3]に入るもっとも適切な語・人名を漢字で答えなさい。
問2 下線部1民撰議院設立建白書に関連する説明文として正誤を判断しなさい。
 a 民撰議院設立建白書の主張は、「上流の民権」論とよばれた。
 b 民撰議院設立建白書は、行政上の諮問機関である右院に提出された。   
 c 民撰議院設立連白書の提出が、自由民権運動の始まりとされている。
問3 下線部2漸次立憲政体樹立の詔に関連する説明文の正誤を判断せよ。
 a この詔に基づき1890年に国会を開設することになった。
 b この詔に基づき、大審院・元老院・地方官会議が設置された。
 c 大阪会議を主宰したのは、内閣総理大臣大久保利通だった。」 
_________________
(答:問1.1有司、2板垣退助、3木戸孝允、問2a〇、b×右院→左院、c〇、問3a×漠然と立憲政体への移行方針を示したもので、まして国会の開設などの時期は明示されてない。b〇、c×大阪会議を主宰したのは、大久保利通だったが、内閣制度が始まるのは1885年、大久保は1878年に暗殺されている。つまり内閣総理大臣になれるはずがない。〉

2012早稲田大・政経:「
 人民あまねく国政を議するに至るは、国の独立を実にし、民の昌栄を進むるの兆なるは言を待たざるなり。過ぐる一八日の( 1 )に、( 2 )へ宛たる、3)副島氏はじめ八名の建言書を載せたり。これを看るに「民撰議院」を立つるの議あり。その論ことごとく国政に関せざるはなし。すなわち、この国の独立、民の昌栄を目的とするものなり。しかれどもその志意いまだ分明ならず、またその文義穏ならざるを覚う。
問1.(1)に入る新聞は何か。
 ア国民新聞 イ自由新聞
 ウ郵便報知新聞 エ日新真事誌
 オ時事新報問
問2.(1)の新聞の発行者は誰か。
 アJ.R.ブラック イ前島密
 ウ馬場辰猪 エ福沢諭吉
 オ徳富蘇峰
問3.(2)に入る機関は何か。
 ア集議院 イ元老院 ウ正院
 エ右院 オ左院
問4.下線部(3)の副島以下八名に含まれていないものは誰か。
 ア板垣退助 イ後藤象二郎
 ウ小室信夫 エ西郷隆盛
 オ由利公正」
_________________
(答:問1エ、問2ア、問3オ、問4エ)〉

立法府の変遷

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