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『不適切にもほどがある!』はなぜ「平成」をスルーするのか。宮藤官九郎の「平成サブカル」への矜持

ドラマ評 後編

福田ケイスケ 編集者・ライター

FRaU
https://gendai.media/articles/-/126359?media=frau


『ふてほど』のうかつな描写はクドカンの確信犯か

宮藤官九郎は、現在活躍している脚本家の中でも、とりわけ自身の感覚や価値観のアップデートを試みてきた作家だと思う。
特に2013年の『あまちゃん』以降の作品において、その傾向は顕著である。
たとえば、『ごめんね青春!』(2014年)や『ゆとりですがなにか』(2016年)では、単なる男女間の対立や世代間の断絶を越えた両者の融和を描こうとした。
『監獄のお姫さま』(2017年)では、虐げられてきた女性が結託して復讐するシスターフッドを、軽快なクライム・コメディに仕立てあげた。
大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019年)では、スポーツを通して女性へのエンパワーメントや、国策としてのオリンピック批判などを物語に織り込んできた。
しかしそんな彼が、現在放送中の『不適切にもほどがある!』(TBS系、以下『ふてほど』)では、コンプラ配慮や多様性尊重に対して、ほとんど皮肉や揶揄とも取れる“うかつ”で雑な描写を繰り返している。また、本作が「昭和」と「令和」の双方に批判の目を向ける一方で、その間にあったはずの「平成」の描写がまるっと抜け落ちている

私はそこに、平成サブカルチャーの旗手だった彼が“あえてそうしている”意地と覚悟を読み取った。
すなわち、宮藤にとって「全方位を相対化して笑いのネタにすることこそ、真の平等である」というのが、譲れない信念としてあるのではないだろうか。


あらゆる規範を相対化してみせる「平成サブカル」の作法

宮藤は、日本屈指の“照れ屋”な脚本家である。
場面がシリアスになりかけると必ず絶妙にはぐらかし、メッセージが直球になりそうなときは、すかさずギャグを挟んで中和する。
『ふてほど』におけるミュージカルシーンは、まじめでベタな対話シーンを、歌うことでメタ化してしまいたい、そんな彼の“照れ隠し”の最たる例だろう。
おそらく、物語を特定の感情や価値観に誘導し、ガチでマジなメッセージをストレートに表現することは、宮藤にとって極めて恥ずかしくてサムいことなのだと思う。そうなりそうになると、すかさずネタにして茶化したり、メタに捉えて相対化してしまう。
これは、彼が牽引してきた平成サブカルチャーに特有の感覚であり、筆者自身もそうした価値観にどっぷり浸かってきた自覚があるから、よくわかる。
ところが、SNSを含む近年の言論空間では、すべてにおいて立場を旗幟鮮明にすることが求められる。特に、人権や差別をめぐるトピックでは、特定の立場にコミットするのを避け、物事をメタ的に見ようとする平成サブカル的な態度は、「どっちもどっちと冷笑するだけの相対主義」と批判されがちだ。
確かに、行き過ぎた相対化は、現状の権力構造に加担したり、差別構造を温存してしまう側面があるし、そこは平成サブカルの反省すべき一面だと思う。
一方で、それぞれの正義を貫こうとするあまり、「敵か、味方か」の分断を迫り、一度敵と認定した相手を一方的に断罪するような昨今の風潮に、正直、息苦しさを覚えるのもまた本音である。
おそらく、宮藤はそんな空気に対して警鐘を鳴らしたかったのではないだろうか。

「全方位を笑うのが真の平等」は令和に通用するか

宮藤は、平成サブカルを担ってきた作り手の意地として、決して特定の規範にコミットせず、あらゆる規範の境界を相対化することが、二元論や二項対立を乗り越え、真の相互理解や融和に至る方法だと純粋に信じているのだと思う。
そして、そんな「相対化」における最大の武器が、宮藤の場合「笑い」なのである。
パワハラもセクハラも働き方改革も、同性愛もインティマシー・コーディネーターも、ツッコミどころがあればそれをネタにして、等しく笑いのまな板の上に乗せることこそが、宮藤にとっては「すべてを平等に扱う誠実な態度」なのだ。
筆者自身も、たまに思うことがある。マイノリティを笑いのネタにできない/してはいけないのは、彼らを虐げ抑圧してきた社会が、まだその権利を保証できていないからではないのか。
彼らの存在を当たり前のものとして社会が包摂したとき、初めて私たちは(『水曜日のダウンタウン』で議論を巻き起こした)「吃音の芸人」や、(『R-1グランプリ』で物議を醸した)「デモに参加する女性」を笑い飛ばしてもよくなるのではないか。
この記事の前編で、思春期の性の揺らぎやインティマシー・コーディネーターを笑いのネタにするのは「まだ早い」という表現を筆者があえて選んだのは、そのためでもある。
いつか彼らを笑い飛ばせる世の中になることが理想だが、今はまだ拙速すぎる、ということだ。
筆者が『ふてほど』に対してあやうさを抱きつつも、真っ向から否定する気になれない理由がここにある。
筆者自身の中にも「笑うという方法で万物に平等でありたい」という平成サブカルの矜持が、どっしりと根付いてしまっているからだ。
「おもしろがる」ことと「差別に加担する」ことは違うのではないか、「ネタにする」ことと「人権を尊重する」ことは両立するのではないか、今も正解を出せずに悩み続けているからだ。
本作『ふてほど』は、その悩みに対してある種の覚悟を持って開き直ったように見える。つまり、「フィクションはあらゆる制約から解放されるべきである」と。
しかし、その覚悟は、誰かを踏みつけることによって成り立つ、とても甘美で危険な開き直りであるかもしれないことを、忘れてはいけないだろう。

パターン崩しをしてからがクドカンの本領発揮?

第5話で、小川市郎(阿部サダヲ)と娘の純子(河合優実)が1995年の阪神大震災で亡くなる運命が明かされたのをターニングポイントに、物語のトーンは急激に方向転換している。
それまでの「令和の常識に、昭和の非常識が揺さぶりをかける」という構図はうやむやになり、「どうなるかわかっている(死期の定められた)人生をどう生きるか」という『木更津キャッツアイ』(2002年)的なテーマが主軸に移ってきたのだ。
そしてとうとう第8話では、不倫騒動で活動自粛を余儀なくされたアナウンサーに対する「たった1回踏み外した人間が、元いた場所に戻ることすら許されない社会なんておかしい」という市郎の主張が、令和の世では通用せず、世間の声に敗北するさまが描かれた。
これを物語の破綻と解釈するのは簡単だが、連続ドラマの序盤で作り上げたパターンを、後半で自らわざと崩しにかかるのは、宮藤の脚本作品ではよくある展開だ。そのほころびから、物語は予定調和ではない思いもよらない方向へ飛躍することがままある。
さて、本作『ふてほど』はどうなるだろう。
昭和と令和の二項対立を超克するというテーマはこのままうやむやにされていくのか、それとも何らかの答えが用意されるのか。阪神大震災というシンボリックな出来事を前に、「平成」への回顧と反省は行われるのか。
本作の最終的な評価は、ひとまず最終回まで見届けてから下したいと思う。

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