つぶやき

そして、障害を持つ人や、LGBTの人々に想いを馳せた。
正直、わたしはLGBTだという感じがない、
同性愛者というのもピンとこない、ただ、自然と女の子を好きになっただけだし、そのこと自体になんの感情も湧かないのだ。
わたしは、わたしでしかない。
わたしが、バイセクシャルだから、彼女を好きになったのではなく、わたしが女の子も好きになった、というのが感覚に、近いかもしれない。でも、それはわたしがわたしの感覚を「普通」としているからだ。

そして、男の人を好きになる可能性があるからかもしれない。子供を成す可能性が開かれているから。もちろん、病気でなせないこともあるだろう。それでも、「普通」の範疇から、絶対的にはじき出されていないことに対する安心感があるのだ。
わたしにとっての同性愛が、選択肢の広がりでも、ゲイやレズビアンの人々が「普通」の人たちが同性を愛せないように、異性を愛せないと悟った時の心細さはどれほどのものか。


「普通」ってなんなのだろうか、わたしは自分が普通だ。みんな自分が普通だと思う。
普通は人によって違うのだ。だけど、どうしても自分の普通によって人を測ってしまう。
そして、多くの人たちの普通の範疇からはじき出された人が、普通でないと社会的に判断される。
では、そもそも自分の普通は普通なのか、どこから来たのか。本当に自分の基準なのか、自分が本当にそれに収まるのか。
普通の人なんているのだろうか。

わたしは自分の基準を信じ抜くことはできない。わたしは普通でないから。

普通でないことにほのかに憧れつつ、わたしは自分が普通だと思っていたし、これからもそう思っているのではないかと思う。
でも、人からしたら普通でないのだろうと思う。変な人なのだと思う。
いっつも、わたしの性格のせいだともがいていたけれど、わたしは人にとって、変な人だからと割り切ると非常に楽になった。
だってこれが普通なんだもん。
自然なわたしがこうなの。
みんなも、そうなんじゃないの?

本当は多くの人がバイセクシャルというから、同性を好きになるというのは扉を開くか開かないかの差なのかも。
でもそれって、何に対しても、そうだよね。滝壺にあったとして、安全なら飛び込む人がいれば、危険でも飛び込む人がいて、絶対に飛び込まない人もいる。ただそれぞれの感覚を、滝壺があると認めた上で、飛び込む人も、飛び込まない人もいるんだね、と思うことが大切だと思う。まあ、滝壺がない人もいるんだろうけどさ。

どんなに気持ち悪く感じても、その人たちが自然にそこにあるということを否定できるわけがない。その人の生を否定してるも同然だ。

正直わたしは一瞬自分が気持ち悪かった。
でも、それははたからみた自分だった。
はたからみた自分は男性を好きになっていても、気持ち悪い。
同性愛者も、障害者も、汚いおっさんも、恋する自分も、みんな気持ち悪いのだ。
そして、みんな自然で、みんな美しくて、理解できなくて、、、そんなの、一人一人全員そうではないか。ただ生きてるだけではないか。

ほっておけよ。と思ってしまう。
何も、後ろから滝壺に落としたりしないからさ。そりゃ落とす人もいるかもしれないけど、そんなの、「普通」の人でもそうじゃん。
落ちたくないって言っていたのに、自分で勝手に落ちてたりね。


とにかく、わたしは、そこでそうして、生きているものに対して肯定したい。
生まれて、生きていることに対して、
何かが起きることに対して。
たとえ短くても、どんなに哀れに見えても
わたしは生まれて、生きているのだから。
誰かが不良品だと、疎外されるということは、わたしがそうされるということだ。

わたしはいい人ではないし、人を傷つける。好き嫌いもある。
けれど、当事者でなくても、理解できなくとも、受け入れられる人でありたい。
だってわたしもそうして欲しいから。

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