【閑話休題】抗がん剤治療中だけど、母さんが俺のことを忘れた話。

母が、俺のことを忘れた。

たった10文字だけど、インパクトが強すぎるこの言葉は、ある日突然やってきた訳じゃない。7年程前に父親が他界してから、少しづつ、本当に少しづつだけど兆候はあった。
でも30代後半の働き盛りの俺は、仕事が楽しくて、忙しさにかまけて、母親は強いし大丈夫と勝手に思い込み、現実から目を背けてしまっていた。

優しかった母が、突然の父の死によってどれ程ショックを受け、どれほど寂しい想いをしていたのかを考えることもなく。

一人っ子の俺にとって母親は、昔から大好きでキレイな自慢の母親だった。胸を張って言うことなのかわからないけど、多分おれはマザコンだったと思う。それくらいに母親のことが好きだった。ケンカもしょっちゅうしたけどね。今となっては唯一の肉親で代えようのない存在。

あのときあーしておけば、あのときこーしておけばと後悔の念は、正直数えきれない。結果としての現実はひょっとしたらなにも変わらなかったかもしれないのに、それでも考えてしまうのは、あのときの俺が精一杯手を尽くさなかったからなんだろうな。

母さん、ごめんね。
もっともっと一緒にいたいよ。

電話では一週間に一回くらいのペースで定期的に連絡を取っていて、いつも声の調子も悪くなかったので、それだけで安心してしまっていた。俺自身の病気の治療もあって、直接会いに行けなくなっていたのもよくなかったんだろう。自分のことで精一杯で心に余裕がなかった。


それは突然やってきた。

2日前に電話で話したとき、なにを話しているかよくわからなかった。いままでもたびたび???ということはあったが、それとは明らかに様子が違う。何かがおかしい。呂律も回っていない。会話が空回りというか、俺と話しているのに話していないというか、明らかな違和感。

すぐに家に行くことにした。

正直、俺の体調自体も決してよい状態ではなかったが、そんなことをいっている場合じゃないなと、俺の中のアラームが告げている。
今いかなきゃならない。

家について、母親と対面してまずビックリした。
明らかに顔つきが違う。目付きが変わっている。目が異様に腫れていて、髪の毛も真っ白になっていた。動きもスローモーションのようにゆっくりだ。このときはまだ俺のことを覚えていて、遠くまで悪いねぇ、あんたも大変なのにねぇと、笑っていた。

そんなの全然大丈夫だよ。
って言いながら、その時点で俺は泣きそうになった。もはや猶予は無いなと思い、その場で妻に電話して、家に連れていくことにした。介護の問題など考えなきゃいけないことは山ほどあるけど、今はそこまで頭が回らない。家に帰ってからゆっくり考えればいい。このまま一人にしておけない。と思った。

冷蔵庫の整理をして、通帳や貴重品などの必要なものを準備して、ゴミをまとめた(特に生ゴミ)。次にいつ帰ってこれるかもわからないので、頭は混乱しながらも、体はテキパキと動いていた。
電気とガスも止めとかないとな。
頭は冷静だった。
その間、母さんは椅子に座って前後に揺れていた。

荷物やゴミを車に積み込み、出掛ける準備を万端にして、母さんに声をかけた。どうなるかはわからないけど、まずは家に連れていかないと。美味しいもの食べて、孫たちと話せばきっと、徐々によくなるさ。本気でそう思っていた。
「さぁ準備できたよ。いこうか」

母さんは焦点の定まらない様子で、うーんうーんと少し唸ったあと、こう言った。
「えーと、、、、、どちら様でしたでしょうか」


冗談をいっている様子でもなく、笑わせようとしているわけでもない。単純に目の前にいる俺のことが本当にわからない。そんな様子。

それだけは理解できた。

母さんが俺のことを忘れた瞬間。
それは徐々に少しづつじゃなくて、いきなり来た。



黙って母親を抱き締めたら、涙が流れた。

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