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「君の名前の横顔」を読んで


 「鏡の国のアリス」に登場する詩には恐ろしい怪物、ジャバウォックが現れる。
その怪物が象徴するもの、それは「昂揚した議論の賜物」。SNSが普及し、誰もが自由に意見を交わせる世の中になったこの世界にも、その怪物は存在している。——互いに顔の見えない媒体で大勢の人たちが昂揚した議論を交わし、そして誰かを攻撃し、大切なものを盗っていく。巨大だけれど実体がない。怖しい怪物。

 これは「ジャバウォックに絵具を盗まれた」と語るシーンから始まる家族の物語。ネットで誹謗中傷された夫が自殺し、10歳になった冬明は不登校気味で、シングルマザーとなった愛は困惑し疲弊していた。二人を見守る死んだ夫の連れ子、楓は、冬明の「世界の一部を盗む」想像上の怪物の話を聞き、調べ始める。

 ジャバウォックが盗っていくものは物だけではない。その世界から記憶や名前も同様に、ほとんどの人が意識しない内に失われていく。そしてその存在もなかったことになってしまう。

 楓はジャバウォックの調査をする中、自身の初恋の相手、アリスに再会する。しかし、彼女は名前を盗まれてしまっていて楓は思い出すことができない。楓とアリスは自分の大切な家族のため、自分の名前を思い出してもらうためにジャバウォックを追う。

 この本を読んでいて感じることは、家族とは、血の繋がりとは何なのか、名前の持つ意味とは、ということだ。

 楓は実母が絡む過去の出来事により、自身が生まれ持った「家族」という和そのものを大切だと思えずにいる。ただし、実母からもらった楓という名前だけは気に入っていた。その名前は自分の愛する息子の幸せこそが自分の幸せなのだと、親子のつながりに執着した母の思いに由来する。一方、冬明の名前はというと、冬の明け方に生まれたから冬明。ただ、それだけ。しかしそこには親の希望を押し付けることはしたくない、自分たちの希望より我が子のほうが大事だという意味がある。つまり、「意味がないということに意味がある」のだ。

 実際に、世の中には自分の名前の大げささにうんざりすることがある人もいるだろう。名前と現実の矛盾に「名前負け」という名前までついている。僕も自分の名前に塞ぎたくなることがある。「賢」なんて、たいそうな字を使わないでくれ。と。ジャバウォックの出現と同時に冬明が頭痛を感じるように、「名前、漢字でどう書くの?」と聞かれた時には、僕は処理に時間がかかるような思いになる。だからか、僕は冬明の名前を考え深くて素敵な意味だと思った。

 何にでもついている「名前」とは対極にあるもの。それは、「価値観も、理屈も、愛だとか正義だとか歴史だとか」、多面的で、人によって解釈がちがうものだ。捉え方が人によって変わるのにも関わらず一般化される常識や正義に僕たちはどう向き合っていけばいいのだろう。

 楓や愛さんのように、現実と向き合うことが怖くて、頑固に自分の捉え方、感じ方を他人におしつけることもあったかもしれない。相手の考えに隙を見つける癖もここから生まれるのだろうと思う。しかし自分を変えることはできる。すぐにとは言わないが、時間をかけて、注意を向けて過ごしていけば、必ず変わることができるだろうとこの本を読み、確信した。

 存在の見えない「ジャバウォック」は怪物なのか自分自身なのか。嫌なものに蓋をしたい、忘れてしまいたいからジャバウォックが奪い去ってしまうのか。常識の枠にとらわれず進む決断をした楓は、冬明と共に常識よりも現実を受け入れる覚悟をする。

 名前の定義に、正悪に拘らず、自分が感じたこと、大切にしたいものを見つけて、見つめて、生きていきたいと思う。

 現実を受け入れ、その暗いところも学ぶことは少年心を捨てることでもなく、夢を捨てることでもない。それを知っていることが僕の強みにもなるだろう。「純粋なものが、少しだけ欠けてしまったような。けれど、その欠けも、きっと美しいものなのだ。満月と三日月とに優劣をつけられないように。」


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