脱労働社会化の『資本論』:給付型国家の経済学 文責 やすいゆたか


1、資本主義のダイナミズムが働かなくなった

ハイテクで新たな産業起こっても、最早そこでも人手は要らぬか

 20世紀末、科学技術大国化した日本は、21世紀は世界経済をリードするようになるだろうと言われていました。エズラ・ヴォーゲルによる一九七九年の著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の予言は当たりそうな雰囲気があったのです。

  ところがハイテク、AIを使った自動化は省力化を伴うので、雇用所得が頭打ちになり、内需が伸びないという問題を抱えていたのです。それでこれまで設備投資に向かっていた資本投資が投機に向かい、バブル経済が現出したのが一九八五年のプラザ合意後の急速な円高局面でした。

 一九八九年バブル最盛期では、世界の企業ランキング20社の内14社が日本企業という異常事態が起きました。バブル崩壊後はデフレ不況が長引きまして。日本経済はどんどん地盤沈下していき、現在世界の企業ランキング50社内に1社も日本企業は見出せません。

 この間日本企業の沈没が特にひどく、その対策も考える必要がありますが、世界経済全体も21世紀は停滞期ではないかという予想が多いのです。その原因は第一次世界大戦前の「ベル・エポックの時代」つまりひどい格差社会に戻ってしまったと言われています。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、電化や自動車などの技術革新が進みました。その結果生産力は飛躍し、省力化が進みます。新技術を使って飛躍を遂げた独占資本家たちは大儲けしますが、失業者が大量にでます。貧富の格差がひどくなるのです。

 そうなると内需が伸びないので、過剰生産恐慌が19世紀後半から十年周期に起こります。特に一九二九年のウォール街の株価大暴落に始まる世界恐慌は深刻でした。そこで国家と独占資本が融合して社会保障の充実、雇用創出のための公共事業の拡大を行いました。さらに労働基本権の尊重し、労働運動を活発にして待遇改善を図らせました。また累進課税などで所得再分配を行い、格差是正によって内需を増やし経済成長を図ってきたのです。 

 ところが一九六〇年代から貿易資本の自由化が進み、世界経済はグローバル化を見せ始めました。そうなると資本はより利潤の見込めるところに流れるので、資本流出を防ぐために、法人税の引き下げ、所得税累進課税の緩和するようになりました。その結果、所得格差は拡大し、経済は低成長時代に入ることになります。 

 第3次・第4次産業革命による生産力拡大の可能性があるのに、雇用所得の減少によるデフレ不況が起こるということですね。それは19世紀後半から20世紀初頭にも経験したのですが、その時は、電化や自動車の普及でどんどん新しい産業が興り、そこで新たな雇用が拡大してデフレ不況を克服できたわけです。それを【資本主義のダイナミズム】と呼ぶのでしたね。 

 20世紀末からの技術革新はAIを装填した自動機械の採用が、広範な産業に及んでいるので、技術革新を応用した新産業も初めから省力化されていてあまり雇用増加につながらないので、雇用所得がなかなか回復せずデフレ不況が長引いたわけです。

2、利潤率の傾向的低下は可変資本の比率の減少によるのか

自動化で雇用所得が減少し、売れなくなって会社傾く

 科学技術が発達すれば、生産力は増大し、利潤も増大する筈なのに、実際は利潤率は低下します。マルクス『資本論』はこの矛盾を「利潤率の傾向的低下の法則」として説明しています。21世紀の低成長が予想される中で、マルクスが『資本論』で〈利潤率の傾向的低下の法則〉を唱えたことには、古典的意義があると再評価する人もいるようです。 

 マルクスは、労働力を「可変資本variables Kapital」と呼び、その他の資本を「不変資本konstantes Kapital」と呼びます。それは労働者の労働のみが価値を生み、増殖させると見なしているからです。その他の資本は、平均すれば価値通り売買され、価値を生まないと捉えています。科学技術が発展すれば機械などの不変資本の割合が増大します。その反対に価値を生み、増大させる可変資本の割合が減るので、利潤率も低下するという理屈です。 

 しかし機械の改良・進化で、省力化するということは、労働力を機械に替えた方が生産性が増し、価値が増大するからです。それが利潤に結び付かないのは、過剰生産になって売れ残るからです。もちろん必要以上に作っても売れませんが、必要なだけ作っても、省力化によって雇用所得が減少しているので買いたくても買えないのです。 

 ですから雇用所得の減少を補填し、技術革新で増進した生産力に照応して政府が国民に所得を配分すれば、経済は循環し、利潤率は低下しない筈です。 

 「資本主義のダイナミズム」は限界に達したのです。つまり自動化が進んでいるので、技術革新によって新たな雇用は生まれにくくなったのです。熟練的な技術を自動機械がこなすので、生身の労働者は単純労働に回され、非正規化して雇用所得は減少しがちなわけです。そのうち汎用ロボットが普及すると単純作業もロボットの方が安上がりで、確実にこなすようになります。日本が20世紀末からの長期デフレに陥ったのは、長期的に賃金があがっていないことと深い関りがあります。つまりそれだけ脱労働社会化が深化してきているということなのです。 

3、マルクス労働価値説と価値憑物説

機械には過去の労働憑りつけりそを製品に移したるかな マルクス価値移転説

 自動機械などの進化で富が増大することで、価値も増大しているとして、政府が国民に所得を給付すればいいと私は考えているわけですが、それでは機械も富だけでなく価値も生んでいることになりますね。マルクスは商品の二重性として効用を意味する使用価値と交換価値があるとします。使用価値を生み出すのに機械は大きな役割を果たしていることはマルクスも認めますが、交換価値は商品の本質である価値を基準に決まると捉えます。そして価値は生身の人間労働だけが生み出しているとしています。 

 そこで脱労働社会の『資本論』を展開する際は、労働価値説の根本的な見直しの必要なのです。生身の人間労働だけが価値を生むという場合に、それは価値を生み出した人間が、価値を所有し、すべきだという含意があります。ですからマルクスは労働者だけが労働しており、価値を生んでいるのであって、価値を生んでいない資本家が、価値を獲得し、支配するのは不当だという主張があります。

  ところが現実には資本家は、不変資本や可変資本を買い集めて、生産を組織し、支配して価値を増殖させるという資本の働きによって、価値を増やしているとしてあたかも利殖行為という労働が価値を生み、増やしたかに捉えています。

 だから労働者の労働だけでなく、商人の売買、金貸しの貸付、地主の土地貸与も広い意味の労働と見なす人もいたわけですね。その内、労働者の労働だけに純化したのがマルクスの剰余価値説です。 

 マルクスによれば、商人は商品の、金貸しは貨幣の、地主は土地の、資本家は資本の働きに憑りついて、自分が価値を生んだと倒錯している。さらに商品、貨幣、土地、資本(機械・原材料・燃料・労働力など)の価値は労働者の労働が生み出したものとして、結局生身の労働者の労働に価値の源泉を還元しました。そう説明すれば、資本主義は資本家が労働者の労働を搾取する体制だということが構造的に明確になります。 

 資本家が資本に憑りつくように、労働者の労働も価値になって、機械や生産物に取り憑きますし、機械の価値を生み出す働きを自分の働きだと説明します。 

 マルクスは、先ず価値の定義自体が、価値は抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)だとしています。労働それ自体の塊が事物にくっついているとするのです。つまり事物は効用は示しますが、価値は示しません。事物の属性ではなく、人間労働それ自体の塊が価値なのです。それをあたかも商品である製品やサービスの属性だとみなされるのは、労働時間がガレルテになって憑りついているからだという理屈です。 

 価値移転論は、生産において不変資本(機械・原材料・燃料など労働力以外)は価値を生まないことを説明するため、不変資本には過去の労働が価値として憑りついているという前提で説明しています。 

 上の価値移転論では、不変資本の価値は、過去の労働が形成し、その価値を製品に移転したのは、機械・原材料・燃料などを製品に変えた、現在の労働者の具体的有用労働であるとしているのです。 

 何故8千円4時間分の価値移転を不変資本の働きと考えないのでしょう。それは労働を目的意識的対象変革活動とすると、主体は労働力で生産諸力はその手段にすぎないので、機械は働いていないと捉えるからです。しかし、この理屈は、ほとんど自動機械が生産する無人工場の時代には通用しませんね。

 主体・客体的捉えるべき場面ではなくて、経済循環を説明すべき場面ですから、機械の働きで減価償却分だけ機械が価値を生んていると説明しても支障ない筈です。過去の労働の塊が付着しているのではなく、機械自体が過去の労働の塊なのです。ですから機械の働きで減価償却分だけ価値を対象に生み出すと捉えた方が説得力があります。過去の労働は現在においては働かず、現在稼働するのは機械ですね。 

4、特別剰余価値の生産―強められた労働説

新鋭のマシーンを使えばこれまでの十倍、百倍価値を生めるや

 マルクスは、特別剰余価値(Extramehrwert)の生産も憑物信仰の論理で展開しています。つまり新鋭機械の登場で生産性が飛躍した場合でも、価値を生んだのは生身の労働力だというのです。ただし新鋭機械が生身の労働に憑りついて「強められた労働」だという話です。上の図で5倍強められたら、1万8千円の価値を持つ製品になります。 

 どうして新鋭機械がその働きで価値を生んだと言えないのでしょうか。価値の定義が抽象的人間労働のガレルテだからということもありますが、新鋭機械はやがて普及して特別剰余価値を生まなくなるので、一時的な仮の姿だし、機械はあくまで労働の手段ではなく、労働しているのは労働者だけだからと主体と手段の区別に拘るからでしょう。 

 マルクスは、憑物信仰で労働者と機械の関係を論じており、それは資本家が資本に憑りついて価値増殖したり、地主が土地に憑りついて地代を稼ぐのと同じで、機械の働きを機械に憑りついた労働者の働きにしているのです。

  価値移転論では、機械は減価償却分だけ製品に価値を移すとされます。それは機械が稼働したことによってですね。マルクスの説明ではその際の労働者の具体的有用労働が移した主体だとするのです。それに機械に付着しているとされる価値は、機械を作った過去の労働のガレルテとされています。しかし私が思うに、機械が稼働する時には、過去の労働は労働しません。機械が稼働し、機械が価値を減価償却分だけ生んでいると解釈すべきでしょう。 

 新鋭機械による特別剰余価値の生産も、生身の人間労働の複雑度は強まっていないので、強くなったのは機械の働きと捉えるべきです。ところがマルクスはその働きに労働者の労働を憑りつかせて、強められた労働と説明しています。これではマルクスが批判している資本家と資本の関係を労働者と機械に適用した憑物信仰であると評さざるを得ません。

 マルクス『資本論』は、生身の労働者の労働が生み出す剰余価値によって資本の増殖することがある程度納得できる時代には説得力がありましたが、機械の自動化が支配的に成ってきて、資本主義のダイナミズムがそれほど機能しなくなる20世紀末からは説得力を失ったと思われます。 

5、機械も含めた人間観への転換―包括的ヒューマニズム

人間の体の一部と説かざるや機械や製品環境含めて

 機械も減価償却分だけ価値を製品に生み、特別剰余価値の場合は減価償却費の何倍も価値を生むように説明するためには、価値の定義を生身の人間の労働の塊から、広げる必要があります。

  何故生身の人間労働だけが価値を生むとされたかといいますと、それは身体に主体である人間を限定し、機械や原材料、環境的自然を人間の外部に固定したからです。それは資本と労働の関係を人格的な資本家と労働者の階級支配に還元しようとしたからでしょう。

  しかし実際には労働や生産に当たっては、社会的諸事物を手足のように自己の身体化して、一緒に働くことによって生産しています。それにマルクスだって〈若きマルクス〉と呼ばれる青年時代には、自然は人間の非有機的身体として捉えられていたのです。一八四四年の『経済学・哲学手稿』から引用します。

一八四四年の『経済学・哲学手稿』と若きマルクス 

 人間の定義は、学問領域次第でいろいろであり得ます。人間身体と機械を見比べて、人間身体を人間で、機械を人間ではないと捉えることも必要です。しかし富の生産・流通・消費の循環を対象とする経済学においては、むしろ非有機的身体としての社会的諸事物や環境的自然を包括して人間と捉える「包括的ヒューマニズム」の人間観が求められるのです。 

 「包括的ヒューマニズム」の人間観に立てば、機械も人間に包括されて、身体的諸個人と共に一緒に稼働していますから、減価償却分だけ価値を生むと捉えてよいのです。特に特別剰余価値の生産の場合は、その何倍も価値を生みます。 

6、機械が剰余価値を生む条件

機械でも剰余価値生むこともある利益はるかにコスト凌げば

  ではマルクスは、労働力だけが剰余価値を生む理由をどのように説明したのでしょうか。一つは、資本主義の発達で、中間階級は没落して、労働力人口は絶えず増大するから、賃金はギリギリまで切り下げられるとしました。もう一つは、技術革新が進むと、省力化で失業者が大量に発生するので、賃金は下落するとしたのです。その結果、最低限度の生活費を基準に賃金が決まるというわけです。それに対して、労働者が労働によって生み出す価値は賃金をはるかに上回ります。その差額が剰余価値で、剰余価値がなければ利潤は獲得できません。

【剰余価値=労働者が生み出す価値−賃金】

  同じ条件が当てはまれば。機械も剰余価値を生むことになります。需要増加が見込まれる機械は、多くの企業が開発競争に参入するので、過剰生産になりやすいわけです。その結果買い叩かれて、コストギリギリまで価格が下落することもよくあります。コスト割れした企業は、市場からの撤退を余儀なくされます。

  機械は減価償却費分だけしか価値を生まなければ、剰余価値を出しませんが、それ以上の価値を生めば当然剰余価値を生むのです。生身の人間身体である労働力を、小型の汎用自動機械の一種と考えてみてください。その減価償却費が賃金にあたります。例えば家電製品などは、5万円で買った電気洗濯機は20年経ってもまだ使えるとしたら5万円分以上の価値を生んでいます。平均10年で買い替えるとしたら、5万円は剰余価値を生んだことになります。

 また1台の自動機械の購入で百人の省力化ができて、その給与平均月30万円だったとすると、月3000万円の減価償却費でその機械を買っても損はありません。しかも機械の減価償却費はその機械がもたらす利益によってではなく、その自動機械を生産するコストによって決まります。それで例えば月1000万円の減価償却費で済めば、月2000万円の剰余価値を生み出すことになるのです。 

 生産の局面だけみればそうなのですが、ただし、人件費の削減によって、雇用所得が減少します。それで内需が減少して、製品が売れなくなれば、その剰余価値を利潤として獲得することはできません。21世紀の利潤率の低下は、資本構成比で可変資本の割合が減ったから、剰余価値を生まなくなったのではなくて、雇用所得の減少が原因なのです。

  第3次・第4次の産業革命は省力化を伴うので、生産局面で剰余価値はこれまでの何倍、何十倍と生み出されても、雇用所得減少によって売れないため、デフレで価格が下がり、剰余価値が利潤として実現しないのです。そのために利潤率の低下を招くことになるのです。 

 その対策としては、政府支出による家計への補填が必要です。第3次・第4次の産業革命によって、失業したり、より単純な仕事に転職を余儀なくされて雇用所得が減った家計には、何らかの名目をつけて補填すべきです。また第四次産業革命により生産力は伸びるのですから、それに対応して一般消費者の家計も収入が増えないと買えませんから、その補填も必要です。 

 要するにデフレ対策としてマイナス所得税で国民に所得を給付して、内需を増やす経済政策をヘリコプター・マネーと言います。新自由主義のフリードマンもデフレ対策としてのヘリコプター・マネーの有効性を説いているようです。 

7、累積債務があっても積極財政は可能か

積み上げし債務千兆ありとてもデフレとなればマネー惜しむな

 しかしデフレを一気に解消するぐらいの所得を国民に給付するなんて、累積債務が1000兆円を超えている日本の場合、「夢のまた夢」のように考えている人が多いですね。つまり国の負債は国民の負債なので、1000兆円は人口1億人としたら1人あたり1千万円税金を余計に納めてもらって支払はなければならないという理屈です。税収の範囲内に政府支出を抑えるという財政原則のことを「プライマリーバランス」を取るといいますが、それはいままでの「徴税国家」の発想です。これからは政府は、生産力の増加に見合って、国民がそれらを需要できるように、所得を給付する「給付国家」のイメージで捉え返されるべきなのです。

  さて補填財源の問題ですが、1000兆円超える累積債務があるので、家計への補填は本当に無理でしょうか?日本政府に通貨高権があり、管理通貨制度で、国債がほとんど日銀と市中銀行によって保有されているのであれば債務高の多少は関係ありません。デフレの場合は通貨が不足しているのですから、消費者に通貨を給付してデフレを解消する必要あるのです。その場合に、サプライサイドに財政投資を先行させるとデフレを深刻化させることになりかねません。それが長期デフレの原因になりました。

  通貨は政府の債務証書です。貨幣の歴史を辿れば、貨幣は商品の一種でどの商品とも交換可能な商品が貨幣になったという説明にも一理ありますが、少なくとも、現在の本位貨幣の裏付けもなく、国際通貨との固定為替相場もない、管理通貨制度の貨幣は、政府の債務証書でしかありません。ですから日本銀行に持っていっても同額の紙幣と交換されるだけです。

  それで1000兆円も累積債務を抱える政府の通貨には信用がないので、インフレになるかというと、それは別問題です。いくら累積債務を抱えていても、新規に発行する通貨には制約がないのですから、日銀が支払い不能つまりデフォルト(債務不履行)に陥る心配はないのです。 

 それより怖いのは、国民に所得がなくて、経済が循環しなくなること、そして所得があっても、ハイパーインフレに陥って、物が買えなくなることです。第4次産業革命が進行して物資が溢れているのに、国民の多くが低所得のためデフレ不況という時は、インフレにならない程度にどんどん給付すればいいわけです。

  逆に物資が足らなくてインフレになれば、サプライサイドにテコ入れして、インフラの整備、企業の技術革新への設備投資の補助、研究開発へのテコ入れなどをすべきですし、企業の動きが鈍い時には先導して国が研究開発を行うぐらいでないといけません。当然優秀な人材を育成するための教育改革に取り組むべきでしょう。もちろんデフレの時でも国際競争に負けてはいけないので、しっかりした国家的な研究開発プロジェクトを遂行すべきです。

  脱労働社会では機械が生み出す富や価値を購入し、消費するための債権を国民に交付すると考えればいいのです。大部分の国民は雇用労働から解放されるのですから、企業から所得を得ることはできません。政府が直接国民に交付するしかないのです。その通貨は企業に支払われ、再生産に使われます。それで経済が循環します。 

 政府にすれば働かなくても政府から所得を得れるとなったら、誰も働かなくなって、経済が成り立たなくなると危惧しているのかもしれません。しかしそれは杞憂ですね。国民は自動機械に取って代わられたから、働けなくなったのです。代わりに機械が自分の分まで働いてくれているのだから、生活のために必要な所得はもらう権利があるわけです。もし所得がなくなった国民に「働かざる者、喰うべからず」として所得を与えなかったら、経済循環が成り立たず、企業も倒産してしまいます。消費という活動も経済循環にとって不可欠ですから、生活費の給付は消費活動に対する報酬とも言えますね。 

8、勤労社会から活動社会へ―活動所得制度

勤労は汎用ロボにお任せよ生身の君は何を担うや

 近代勤労社会は雇用労働に対して所得を賃金という形で与えることで、経済循環が発展的に展開できたということです。そして今やその近代勤労社会は終焉しようとしているわけですから、新たな所得の配分方式を採用せざるをえないのです。脱労働社会は、政府が家計に対して消費活動に報酬するということですね。その意味では一番単純な形はBI(ベーシックインカム)です。

  しかし老若男女問わず一律だと、餌を与えられて飼われているような感じなので、一億総家畜化で、それこそ怠惰の奨励になりかねません。同じ消費活動でも社会的に有意義な活動に対して、報酬を支払う形をとれば、その活動によって社会に貢献していると感じ、その報酬を活動に対する当然の報酬と受け止められるようになります。

 そうなれば、国家に雇用されて活動しているような気持ちになりますから、近代勤労社会に負けないぐらいに自らの活動で社会を成り立たせ、自らの生活費を稼いでいる気持ちになるでしょう。それが私の提唱している活動所得制度(Activity Income System)です。 

アンナ・ハーレントが『人間の条件』で広い意味の活動を労働と仕事と狭い意味の活動に分類しています。ちくま学芸文庫の志水速雄訳を引用します。

【労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。

仕事workとは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が、永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。

活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。たしかに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。】

現在この本を読んでいる最中でまだコメントできませんが、近代勤労社会は、生きていくために必要な労苦としての労働に、生きた明かしを遺す仕事も、人と関わって何かを成し遂げる活動も、収斂されてしまっているというわけですね。つまりあらゆる活動が資本の支配の下に置かれると、生活費を稼ぐための労働、生きるための労苦に成り下がってしまうわけです。

その意味でオートメイションによる労働からの解放は、仕事や活動が本来の意味を取り戻すチャンスとも言えますね。しかし活動に対して政府が報酬するとなったら、活動の労働化ということになります。つまり仕事は生きた明かしの存在証明ではなく、生きるための苦行となり、活動はともに何かを成し遂げるためではなく、生きる糧を得るため金儲けになります。それはある意味仕方ないですね。だって私的所有制に基づく資本制生産様式は続いていて、生産物やサービスは全て商品として生みだされ、流通するのですから、所得を得なければ生きていけません。

 今のところ労働化によって仕事や活動が疎外されることを危惧するより、雇用労働がなくなり、結果、雇用所得がなくなって困窮する方が、百倍も千倍も恐れているわけですね。ですから雇用労働がなくなっても、仕事や活動が社会的に有意義だと認められることで、活動価値を認定され、報酬をもらえるシステムを構築する方が、脱労働社会の経済循環が成り立つので、みんな喜ぶはずです。

9、第四次産業革命の波に乗り遅れるな

将来に負債回すは罪なりと緊縮すれば衰退あるのみ

 国債発行でBIやAISを行うと日銀に対する債務になりますが、同じ政府機関なので債務の帳消しは可能なのです。ただし経済が順調に循環すれば税収が増えるので、累積債務は減少していきます。 

 それに政府の債務を支払うのは、脱労働社会では富や価値を生み出すのはほとんど自動機械であり、第4次産業革命が順調に進展すれば、生産性は飛躍的に伸びるので、個々の国民に増税で負担を強いる事にはなりません。 

 21世紀は第四次産業革命の時代です。と同時に脱労働社会化の時代でもあります。生産力の増大に見合う通貨量の増大が必要です。しかも需要側への先行給付がなければ、深刻なデフレ不況になり、国際的地位も凋落してしまいます。同時に必要なのが第四次産業革命に乗り遅れないことです。貿易・資本は自由化されていますから、放置してきたので資本がアメリカや中国に流れて、先端技術で水を開けられています。 

 長期停滞の原因に、日本の資本が国内企業の研究や技術革新や賃上げに向けられず、米中への投資に流れたことがあげられます。その結果国際競争に後れをとり、製品の売り上げも伸びないので、企業規模も拡大しなかったということです。 

 環境技術開発、半導体、汎用ロボット、宇宙開発、先端医療などの研究開発に特化した研究開発財団を官民共同で起ち上げ、そこに財政投資して、成果をあげさせるのです。リニアモーターカーやロケット開発みたいに、クズグズして中国や北朝鮮に後れを取ったらだめですね。そこに投資をしたら米中に投資をするよりも利益が大きくなるようにしなければいけません。それができれば資本の過度な拡散を防止でき、その成果を参加企業が利用できて、日本の技術水準の立ち遅れを挽回し、再び世界をリードできるようになると思いますが、どうでしよう。 

 こんな話をしますと、「何を能天気な、日本は既に途上国ですよ、半導体でも、パソコンでも、宇宙開発でもどんどん中国・台湾・韓国に追い越されている、そんな日本に投資する人はいないですよ」と言われたりしています。そんなこと言われたら落ち込みますね。

 思い起こせば、累積債務を理由に新自由主義に洗脳され、小さな政府と規制緩和の民間活力による経済再生路線でやってきて、日本経済はどんどん沈没していったのです。 

 ただし、じゃあ積極財政でいこうということになり、組織をつくり、投資をしても成果を上げられるかどうかは、また別ですね。それに取り組む人材を育てられるかどうかにかかっているし、それに取り組む人々がどれだけ高いモチベーションを持てるかにもかかっています。 

 そうなると現在の企業や学校における意欲低下の問題を解決しなければなりません。最近テレビのニュース番組で日本の勤労者のやる気は極端に落ち込んでいて、OECD加盟国中最下位クラスだというのです。 

10、先ず学習報酬制度の導入から

学習は労働よりも労苦あり、報酬なしにたれか学ばむ

  現在の学校制度は既に耐用年限を過ぎています。現在のまま教育予算を増やしても、ドブに金を捨てるようなものでしょう。私は、小中高大と進学するシステム自体もう廃止した方がいいという考えです。 

 単位をきちんとマスターできたものが、次の単位を履修できるようにするのです。その上に各職業資格を得るにはどれどれの単位履修が必要か決めておきます。従って、単位履修のクラスとその講義や演習があり、どこの校舎で履修してもよいようにするのです。また講義内容はzoomやビデオで通信でも受講可能にすることも必要です。 

 これからは次第に労働時間が短縮されるので、雇用所得だけでは生活できなくなります。年齢制限なしにだれでも必要な単元を履修できていれば受講資格があることにします。雇用所得の減少分は、教育機関の受講、単位履修、研究業績などに報酬が与えられることで補えることにするのです。 

 これからはAIの発達でWEBを使ったニューメディアの時代ですから、学ばなければならないことがいくらでも増え、常に頭をアップデート(更新)しなければついて行けません。雇用労働の機会がなくなっても、常に先端の文化を吸収しないと、新文化を享受できなくなり、経済も停滞することになります。

  学習報酬制を実施する場合に、膨大な経費がかかりますし、反対も多いので、一気に実現するのは難しいと思われます。現在の大学レベルの単元から報酬を与えるなどし、効果を見ながら拡充するというのも考えられます。世界中から優秀な若者が、日本で教育を受けたくなり、日本の文化教育水準が上がると、それが日本で第4次産業革命を推進する力になります。

  雇用労働には賃金という報酬がでるけれど、これまでの学校教育では報酬がでません。それどころか学費まで支払わされます。近代勤労社会では雇用労働に大部分の成人がありつけて、それで子弟の学費まで賄える体制だったので、そのことに疑問すら持たなかった人が多いのですが、これからは違います。雇用にありつける人は少数になりますし、ワークシェアで短時間労働になるので、それだけでは生活が厳しくなります。そうした中で、雇用労働よりある場合には大変な勉学に励んでも、報酬が得られないのは納得できなくなります。

  それに雇用労働で働く人だけが社会や経済を支えているのではなくて、学校や家庭で勉強することで、その社会の知的文化的水準が保たれ、その上に生産・流通・消費の循環も成り立つことが分かりますから、学習活動も経済の循環に不可欠の活動価値を生んでいると捉え返して、報酬を要求するようになるでしょう。最近学生運動は一向に盛り上がりませんが、授業料無償化要求で留まっていてはだめで、今後の脱労働化社会を展望した上で、学習報酬制度を要求する運動を興せば、きっと圧倒的な支持を受けて盛り上がるでしょう。 

 それに学習活動に報酬しなければ、以前のように完全雇用を目指せるほど雇用もないし、あっても短時間・低賃金ですから、学習活動を持続できなくなり、文化水準が下がれば、経済的な競争力も下がり、内需も減退して、経済は一層凋落することになります。これは国際競争ですから、他国が学習報酬制を採用すれば、優秀な人材を取られてしまいます。 

 もちろん道徳的な見地から、報酬目当ての学習になるのはよくないという人もいます。そんなことを言ったら職業だって社会貢献のために働くべきで、私利私欲で金儲けのために、あるいは生活のために働くのは良くないという云い方もできます。

   また教育学的効果から見て、お金目当てに覚えた内容は、試験が済んだらすぐに忘れるとかの問題点を指摘する人もいます。それはほぼ完全雇用が実現している社会の中での教育効果論です。脱労働社会では報酬も貰えないし、就職の保証もないのにどうして学んだ内容をきっちり覚えられるのかということです。

  近代勤労社会が終わったら、次は学習社会かということでは、学習など苦手という人や何も学習しなくても他にも社会に貢献できることがあるので、学習にばかり報酬するのは不公平だという声も大きくなるでしょうね。そこで社会的に有意義な活動にも報酬すべきだということになり、文化・スポーツ、ボランティアなどの活動にもその量・質・社会貢献度などを勘案して報酬するようになるということになります。活動所得制度です。

  しかしそうなるとそういう活動を運営し、正確に量・質・貢献度が算定できるかとか、いろいろ難問があります。それはややこしいし、それこそコンピュータによる管理社会になってしまうので、やはりベーシック・インカムが手っ取り早くていいのではないかという批判が多いですね。

  BIでは一律に同額支給ということで、最低限度の生活費を手当するのはいいのですが、いろいろな社会的有意義な活動へのインセンティブを与えることができないので、停滞的な社会になり、活動所得制度を採用した競争的社会のように発展的ではなくなる恐れがあります。もちろん実際にどうなるかは実験的に実施してみないと分かりませんから、10年間ほど全面的に実施してみる必要はあるかもしれません。

  BI導入など財源的に無理だと思い込んでいる人が多いようですが、所得税増税だけを財源にする場合を考えます。一人当たり7万円のBI支給だと年84万円で年間100兆円になりますが、それに伴って削減できる手当は36兆円なので、64兆円の増税になります。しかしこれは所得再分配ですから、平均すれは増税額は0円ですよ。

   所得税増税としては一律25%の増税になります。その場合にBIで増税分を上回る人は年収336万円以下の人です。個人の平均年収400万円とすると、負担が増える人の方が多いようですが、生活費で考える場合は家計単位で考えるべきです。 

 年収400万円の人の所得税増税は100万円ですが年に84万円のBIが支給されるので、年16万円の増税だということです。その人の妻がいて年収100万円のバイト収入があるとしますと、所得税25円の増税ですが、BIは84万円なので、年収は59万円プラスになります。夫婦2人暮らしだと家計の年収は25万円増えるわけです。その上、収入のない子供2人いますと、それに168万円加算されますから、家計としては193万円増えますね。

  ですから平均的な人は反対しないのですが、政治を動かしているのは政財界の有力者で大金持ちが多いので、所得税が25%増税になれば巨額な増税ということで、なかなか実現しません。 

 それで貨幣発行益を財源にする案もあります。要するにBIの分だけ余計に貨幣を刷って配ればいいということです。もちろん実際には銀行振り込みですから、貨幣を刷る必要もありません。そうなると通貨が増えるのでインフレが心配ですね。ですからデフレの時のやり方です。インフレの時は増税して賄えば、通貨量が減るのでインフレを鎮静する効果があります。 

 もちろん21世紀は原則第4次産業革命で生産量はうなぎのぼりということなので、デフレが主流です。環境破壊、戦争や災害、疫病などでインフレになることがあるので、国連を強化し、戦争をなくし、環境対策での国際協力を強める必要はあります。だから基本的には生産量が増えていくので、その分を担保にBIを増やしていけばいいということですね。初年度は月1万円、年12万円からはじめて、10年ぐらいで月10万円ぐらいにしていくというのが現実的かもしれません。

  ただし私はBIでは停滞的になるのではと考えています。だからBIに支給する範囲内でAISを実施するということを提唱しているわけです。


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