マルクス剰余価値理論と21世紀の価値理論(『岐路に立つ哲学』より)文責 やすいゆたか

1、初期マルクス研究会と疎外論

自らが生み出したるにあらざるか、疎ましと思ふ己自身を

アマゾンKINDLE版

 毎日文化センターで、『ポストコロナ後―新時代の思想構築へ』という講座を担当することになりまた。第一講は「マルクス剰余価値理論と21世紀の価値理論」にしましたが、果たしてマルクスの19世紀の剰余価値理論で、21世紀の経済を語れるのだろうかといぶかる方もおられると思います。

 マルクス『資本論』のままでいいというのではありません。しかしマルクスの『資本論』の剰余価値理論はどういうもので、その何処に問題があるのか分かっていないと、21世紀の経済の分析もできないわけです。

 つまり19世紀の剰余価値理論は、生身の労働者の労働が剰余価値を生みだすものとして展開されていますが、21世紀の剰余価値理論は生身の労働者の労働を搾取する形で資本の蓄積を展開できるでしょうか?21世紀は脱労働社会化が深化していくので、極少数になった労働者の労働が全ての価値を生み出していて、それが資本家だけでなく、他のすべての人の所得の源泉になるという説明では説得力がありません。

 もちろん19世紀には正しかった説明が、21世紀には誤りに成るとしたら、その理由をだれもが納得できるように説明ができないといけませんね。しかし全ての価値は生身の労働者の労働からだけ生み出されるというのがどうして言えるのか、その初歩的な理由から再検討する必要があるのです。

自動機械とマルクス『資本論』

 その検討に入る前に、私自身がマルクス研究に入った頃を振り返り、私自身がマルクスの理論とどういう付き合い方をしてきたのが、語っておく必要があります。そうでないとあまりも突飛な思い付きのように見られて、話しを聴いてもらえなくなるかもしれないからです。

 1960年の日米安全保障条約改定反対闘争の時は中学三年生で、反対デモに参加できなかったのですが、それが大いに刺激になりまして、高校生になって、政治や経済の矛盾について深く考えるようになりました。高校では社会研究部に入り、先輩の影響で社会科学の古典と言われた『共産党宣言』『賃労働と資本』なども読むようになっていました。当時高度経済成長時代でしたが、経済成長のひずみが深刻で、私の住んでいた大阪市大正区などは大気汚染などの公害問題で苦しんでいました。小学生の三割が喘息だったようです。

 立命館大学文学部日本史学専攻に進学したのですが、日本史研究は、近現代史に重点を置いていました。そしてマルクス研究としては主に一八四四年の『経済学・哲学手稿』(画像はドイツ語版)の疎外論の勉強をしていました。自分から独立し、自分に対して疎遠になり、自分を敵対的に支配するようになるという「疎外された労働」の論理が胸に突き刺さりましたね。

1844年マルクス著『経済学・哲学手稿』レクラム版

 疎外論は自分で自分の首を絞めている感じですね。自分自身の主体としての在り方が問い直されたのです。被害者なのに加害者みたいに言われてしまって、うろたえたみたいなところがありますね。確かにおかしな論理なんだけど、妙に説得力がありましたね。自分を抑圧し、搾取する体制というのは、日々自分がそれに従って屈従することによって自分自身が作り出している。そんなに嫌だったら、拒否すればいい、でもそれでは生活できないじゃないかというと、みんなで力を合わせて拒否すれば、資本家より労働者の方が圧倒的に多いので、倒せない筈はないということですね。

 それに資本家だって自分たちが屈従することによって増殖している資本の人格化された存在であり、労働者にとって他者化されたもう一人の自分であるということですね。だから疎外をなくすということは労働者の人間性を取り戻すことであるだけでなく、資本家たちの人間性の回復でもあるわけです。それであくまでもヒューマニズムであり、憎しみからではなくて愛による戦いだということです。知識人や学生を疎外論が魅了したのは、疎外論にはそういうヒューマニズムがあふれていたからですね。

 ヘーゲルの場合、哲学体系は絶対精神の自己疎外であり、それを批判したフォイエルバッハは、絶対精神は人間の類的本質の自己疎外だった。それが本当に深刻な疎外に陥っているのは労働者であり、マルクスは疎外された労働の論理構造を明らかにした。その際疎外の主体は、労働の主体としての人間だったわけです。しかしそれが疎外に陥るのは私的所有によってであり、最も極端な形になるのは賃金労働者です。だから疎外を根本的に捉えて、疎外を克服する主体は、疎外の克服なしに何一つ解決できない賃金労働者であり、哲学の主体は賃金労働者でなければならないということになります。

 「ドイツ人の解放は人間たちの解放である。この解放の頭は哲学であり、その心はプロレタリアートである。プロレタリアートの廃止なくして哲学は自らを実現できず、哲学の実現なくしてプロレタリアートは自らを廃止できない。」(一八四四年『ヘーゲル法哲学批判序説』)
 
 
「哲学」と言えば何か高尚なもので、知識人や有閑階級の専有物のようにみなされていたのが、賃金労働者こそ哲学の主体だという言葉は胸に突き刺さるものがありました。

  つまり「絶対精神の疎外」から「人間の類的本質の疎外」になり、人間の「疎外された労働」の解明から賃金労働者であるプロレタリアートを主体とする自己解放の論理へと進展したわけですね。そこでは世界は賃金労働者が労働によって彼らを抑圧する体制を再生産する構造として捉え返されています。世界を自己自身として捉える主体はプロレタリアートであり、哲学はプロレタリアートの心臓に宿らなければならないわけです。

2、唯物史観の確立から剰余価値説へ

疎外論、主・客図式を乗り越えて捨て去られしや未熟なりしと

 そのプロレタリアートである賃金労働者がいかに生成し、自己を解放する運命なのかを解明するのが唯物史観ですね。それで人間社会の各歴史段階で経済的土台となっているのが生産様式であり、政治的・法的・イデオロギー的なものは上部構造であって、その土台に照応するものでないと根付きません。生産様式は生産力と生産関係の二要素からなります。生産関係は、古代奴隷制、中世封建制、近代資本制というように発展し、それで近代は資本家階級が労働者の労働を搾取する構造であるということですね。それを踏まえた上で、資本主義の生産様式の搾取構造を解明したのが剰余価値理論ということになります。

 つまり労働者の労働がアルケー(根源物質)のようになっていて、それが剰余価値となり、資本となって蓄積され巨大な搾取構造を形成しているということですね。だから経済学説である剰余価値理論は、自分で自分の首を絞めているという自己疎外の構造になっています。(画像は院生時代の保井温(やすいゆたか))

院生時代の保井温(やすいゆたか)1971年頃

 ところが1970年頃はアルチュセールや廣松渉の疎外論は『フォイエルバッハ・テーゼ』を切断点にして超克されたという説が流行(はや)っていたのです。それで私も若気の至りで、修論の時点では疎外論払拭説(ふっしょくせつ)に転向していました。それは修論の『労働概念の考察』では鮮明にでています。疎外された面は抽象的人間労働の労働の抽象性に残っているものの、疎外された労働といういわゆる疎外論的な展開は払拭されていると捉えていたのです。

 それから十何年か経ってから、経済哲学研究会で、経済学批判期のマルクスの用法をすべて当たって整理した上で、本当に疎外論が払拭されているかどうかはっきりさせるべきだと、仲間から詰め寄られまして、確認した結果疎外論の払拭説の誤りははっきりしました。それから疎外概念の重要性を再確認しまして、疎外論の復権の旗をふり、21世紀における疎外論の新展開を試みています。

G『経済学批判要綱』 M『剰余価値学史説』 K『資本論』

3、労働者の労働だけが価値を生むという前提

価値生むは生身の労働それだけで語り得るかはオートメ社会

 剰余価値理論は、資本主義という生産様式は労働者の労働が生み出す価値を搾取する体制だという認識になっています。その場合に労働者の労働だけが価値を生むということが大前提になってしまっていたということですね。

 労働価値説では労働によって対価が支払えるということで、何時間分の労働と同等の価値があるということで価値が決まるわけです。これを支配労働価値説と言います。それに対して物の価格の基準は投下された労働量に比例するという考え方を投下労働価値説と言います。アダム・スミスは両方使っていたのですが、リカードは投下労働価値説に純化しました。

膠(にかわ)

 私の解釈では、マルクスの場合、価値は抽象的人間労働の膠質物(Gallerte)だというのを定義的に使っていて、何故価値が商品の持つ支配力ではなくて、抽象的人間労働のガレルテなのかの説明がきちんとなされていないのです。

 つまりマルクスは価値を事物の属性とみなすことをフェティシズム(物神崇拝)的倒錯(とうさく)と考えているのです。それで価値は労働という人間の営みの塊だから、それは事物の属性ではあり得ない、事物の属性だと見るのは、事物と人間を混同するフェティシズム的倒錯だという理屈です。

 でも普通に商品価値と言いますね。腕時計や背広や飛行機運賃など事物やサービスには価格の標準となる価値があると言われます。労働価値説はその価値の実体は労働時間だからそれは人間の労働という行為の塊であって、事物ではないと主張しているのです。

 しかし労働という状態では価値とは言えませんね。事物やサービスという対象を作り上げているから価値なのであり、事物やサービスの社会的属性になっているから価値だとも言えます。しかし、マルクスに言わせれば、事物やサービスの属性のように見えるから価値だとしても、労働の塊だから事物やサービスの属性に見えても、そう見えるのは倒錯だという理屈なのです。

 つまり、マルクスは人間と事物の区別に固執しているわけです。ではどうして労働の塊が事物の属性に見えるのか、それはガレルテつまり膠(にかわ)であって、労働の塊か事物やサービスに付着しているから事物やサービスを見て労働の塊だと錯視するのだということです。価値として凝固しているのは抽象的人間労働の塊だから、具体性が捨象されていて価値自体は付着していても見えません。事物やサービスを見て価値の付着量を推し量っているということです。

 それで私は、抽象的人間労働の塊が価値であっても、それは事物やサービスの対象的な性格になっているから価値なのであって、だから価値を事物やサービスの社会的属性と捉えても倒錯とみなすべきではないという捉え方をマルクスに対置したのです。読者のみなさんは別にどちらでもいいのではないかと思われますか?

 マルクスが言いたいのは、価値は抽象的人間労働自体の塊だから、あくまでも人間の活動であり、事物やサービスの属性ではないとすると、事物はそのような抽象的人間労働は行えないので、生身の労働者以外は価値を生むことは原理的にできないことになります。そのことを確認しておけば、資本主義という生産様式では、生産手段がその働きによって、減価償却分だけ製品に価値を対象化することは原理的にあり得ないことになります。ましてや減価償却分を超えてその何倍も何十倍も価値を対象化することもあり得ません。そのように見える現象があっても、それはすべて生身の労働者の労働の蓄積に他ならないということになるわけです。

 そういう事にしておかないと、マルクスの考えでは、資本主義生産様式が資本家が生産手段を使って労働者を働かせ、労働者が生み出した価値を搾取して資本を蓄積する体制として説明しきれなくなるということです。しかし、それで資本主義経済の原理が本当に正しく展開できるのかが問題です。マルクスが頭で考えた資本主義像の自己展開になってしまっていないかということですね。

 哲学というものは物事を根底的に捉え返し、これまでの固定観念を脱却しようとするのものですから、どうしても既成の観念を社会の構造が生み出した歪められた倒錯として幻想だと批判する傾向があります。この幻想批判が新しい社会を築こうとする若者にはとても大きな魅力だったのです。しかしこの幻想批判自体が新しい幻想を生み出していて、そこから抜けだせないので、21世紀の停滞が生じているのです。

4.『資本論』の方法としてのフェティシズム批判

何故に物が結ぶや価値関係フェティシズムかな人にあらねば
 

青弓社1985年刊

 唯物論の代名詞みたいなマルクスの代表作である『資本論』が観念論に陥っているという批判を私は『人間観の転換―マルクス物神性批判』(青弓社1985年刊)でしたのです。これは画期的だからそこそこ売れると思ったのですが、マルクス研究者からはシカトされ、文章が難解すぎたせいか、ほとんど売れず断裁の憂き目に遭ったようです。

 でもマルクス『資本論』が現実の経済統計から法則性を帰納していくような論理展開ではなく、商品―貨幣―資本と自己展開していく演繹的な論理展開になっています。そして統計的な裏付けというものも示されていません。その意味でマルクスの思い描いた資本の論理の自己展開であるという意味で、観念論的であることは確かです。

 『資本論』の方法論については帰納法と演繹法をうまく組み合わせて展開しているという見田石介さんの『資本論の方法』と、ヘーゲルの大論理学の展開を適用したという梯明秀先生の『ヘーゲル哲学と資本論』など対極的な解釈があります。私が言いたいのは、マルクスは『資本論』を展開するにあたって、フェティシズム批判を方法にしているということです。もちろん事物が商品や貨幣や資本の規定を帯びることによって様々な倒錯が生じることは大いに問題にすべきなのですが、それがマルクスは事物が社会的規定を与えられること自体をフェティシズム的倒錯とみなしている傾向さえみられます。

 つまり先ほど出てきました、価値は抽象的人間労働のガレルテだから、事物には価値が憑依しているだけで、事物自体は価値ではないというような価値憑物論などはそうです。生産物は労働によって作られたのだから社会的な属性を持つと考えて当然です。もちろん労働の結晶として価値を持つと捉えてもおかしくない気もしますね。

 マルクスは労働の二重性でそれを説明しています。労働には具体的有用労働と抽象的人間労働の二重性があるというのです。つまり事物は具体的有用労働によって作られるとします。そして価値は、労働の抽象的性格が凝固したもので、事物に付着するけれど事物自体は価値ではないとするのです。

 マルクスはリンネルという布地と上着の交換で商品関係を代表させています。それぞれリンネルを作る労働、上着を作る労働は具体的有用労働です。その労働が社会的性格を持つことで抽象化されて抽象的人間労働として価値となり、リンネルや上着に付着しているとみなされます。そして価値関係を結ぶのですが、マルクスによれば、この価値関係はリンネルと上着の関係ではなくて、そこに付着している人間労働の関係だから人間関係だということですが、それを事物間の関係と見るのは人間と物を取り違える倒錯だという認識ですね。そこが読者にはなかなか理解に苦しむところですが。

 私のマルクス批判は、労働の二重性と言っても同じ労働なのだから、具体的有用労働が作り出した事物の抽象的な価値性格として事物の社会的属性と捉えてもいい筈だというものです。マルクスは人間の社会関係を取り結ぶのは人間であり、事物ではないから、事物が人間関係を取り結んでいるように捉えるのは倒錯だと言いたいわけです。つまり事物と人間は対極であり、事物を人間に包括したり、逆に人間の人格性を無視して、事物として扱ったりするのは物化、物象化として非難されるべきだと捉えているのです。

 確かに人格の尊厳を無視したり、意思や感情を踏みにじるようなことはいけませんが、社会的な諸事物が商品として規定され、価値関係を構成しているというのは事実問題ですね。それは労働関係だから人間関係であり事物関係ではないと言っても、実際にリンネルや上着が商品として捉えられていることまで否定するのは説得力がありません。

 だからむしろリンネルや上着が商品として捉えられるということは、リンネルや上着が人間の現存になっていて、人間に包括されていると捉えるべきだと私は言うのです。人と物を峻別して、物だから人でないと言い張っていては、経済的な人間関係は展開できません。若きヘーゲルは「労働外化説(ろうどうがいかせつ)」を唱えまして、労働によって人間は生産物として現存すると捉えています。

 そういえば初期マルクスの疎外論で「類的本質からの疎外」との関連で、人間的自然とか非有機的身体としての自然という捉え方がありました。あれは環境的自然や社会的諸事物も人間に包括された人間化された自然であり、器官的には人間身体を構成していないけれど、広義の人間身体に包括されるという意味でした。エンゲルスは「道具は手の延長」と言いましたが、道具も身体の一部として人間労働を構成するということですね。とすると初期マルクスと『資本論』のマルクスとでは人間観で大きな断絶があるということになります。それで機械・原材料・燃料なども人間に包括して、一緒に労働して生産物を作るとしますと、一緒に価値も生み出していることになり、労働者の労働だけが価値を生むとは言えなくなってしまいます。

5、生産主体と生産手段の峻別


労働の塊が価値それ故に対極に置く人と物とを


 マルクスは生産主体と生産手段を峻別(しゅんべつ)して、生産主体が生産手段を使って生産しているので、生産手段は生産にいかに大きな役割を果たしても、生産主体はあくまで労働者だということにしています。ですから原材料・燃料・機械などの生産手段は、生産過程で減価償却する分だけ製品の中に価値を生みだすようにみえても、それなら生産手段が労働したことになってしまうので、マルクスはそれだけは認めたくないのです。マルクスにすれば、定義的に生産手段は価値を生んだとは言えないわけで、生産手段に付着していた価値を減価償却分だけ製品に移転させたことになります。もちろん移転させた主体は生産手段ではなくて、生産手段を製品に変える具体的有用労働をした生身の労働者の労働だということになります。

 生産主体が生産手段を使って労働するから労働するのは、生身の労働者だけという捉え方は、人間と事物の区別に固執するからです。非有機的身体としてあるいは手の延長として道具・機械を捉えていれば、それらも人間に包括されているのですから、機械の働きも含めて人間の労働であると見なすことができます。その場合は生産手段の減価償却分(げんかしょうきゃくぶん)だけ生産手段の働きによって価値が製品に対象化(たいしょうか)されたことになります。そうなりますと、資本主義は労働者の労働だけから価値を搾取(さくしゅ)するのではなくて、生産手段からも価値を吸い上げるということになるのです。

 その場合でもマルクスの学説では、生産手段は不変資本で労働力は可変資本なので、不変資本の場合は減価償却分だけ価値が移転される結果、価値を増殖することは原理的にないので、剰余価値を生みません。従って不変資本から搾取することはできないのです。

 それに対して労働力商品の場合に賃金は最低限度の生活費に抑えられるわけですね。労働者はその分だけ価値を生み出すのに4時間かかるとしますと、労働契約では1日に8時間働く契約なので、4時間分の剰余価値は資本家の取り分になるという計算です。しかし最低限度の生活費で我慢しないで、交渉次第でもっと賃金を上げさせることはできないのでしょうか?

 労働力が不足になれば賃金が上昇して、資本家は剰余価値を減らされるので利潤が出なくなってしまいます。マルクスは労働力はたいていは過剰になるといいます。何故なら、資本主義では競争で中間階級は次第に没落して労働者になるので、労働者の数は常に過剰気味になると言います。また技術改良が進みますと、機械の生産性が上がり、労働力を減らす省力化(しょうりょくか)を伴いますから、労働人口は常に過剰気味になる傾向にあるというのです。

 ということは、機械でも常に過剰気味で、そのために値下げ競争が起こり、価格が低く設定されると、減価償却費以上に価値を生むことも考えられますね。そういう場合もあり得るわけですが、マルクスは資本家は平均利潤は得れるように生産・販売しますから、過剰競争が起こって平均利潤が確保できなくなれば撤退しますね。だから生産手段は不変資本だということですが、これは21世紀の資本主義を考える際には、重大な問題提起になります。

6.特別剰余価値の生産の担い手

労働はさして以前と変われねど強められたりイノベーションで

 それでは、その問題は楽しみにとっておきましょう。生産手段が価値を生むように見られるのが「特別剰余価値の生産」の場面です。これは効率的に分業を改編したり、機械の性能を飛躍的に改善したりすると、労働者の労働の複雑度が従来と同じでも、飛躍的に生産性が向上し、莫大(ばくだい)な剰余価値が一時的に得られることを指しています。

 そういう改編や機械の進歩が普及するとなくなりますが、一時的には莫大な剰余価値が得られるので特別剰余価値の生産と言います。これなどは明らかに改良された機械が特別剰余価値を生んだかに見えるのですが、マルクスはそうではないというのです。機械は人間ではないので労働して価値を生むことはないというのがマルクスの立場です。ですから新鋭機械の導入で価値が今までの十倍も百倍も生産できるようになったら、機械が人間に成って労働しているように思われるので、それこそフェティシズムなのです。

 そうではなくて新鋭機械によって労働が強められたと見るわけですね。労働の動作だけみたら少しも複雑になったり、高度になったりしなくても、新鋭機械という外的な要因で強い労働として今までの何十倍も何百倍も価値を生んだという説明です。このマルクスの説明は、なんだか苦しい言い訳ですね。人間労働が強くなるということは改良された機械の働きを包摂(ほうせつ)しているからで、機械も包括(ほうかつ)して人間と捉えれば、機械を非有機的身体にした人間労働が全体として強くなったと言えます。このような包括的ヒューマニズムの立場に立った解釈の方が、機械が労働しないことに固執するマルクスの説明よりも、納得しやすいと思われます。

 まだ生身の労働者がたくさん働いているのなら、マルクスみたいな捉え方も説得力があるかもしれませんが、技術革新は省力化を伴うことが多く、工場の無人化、店舗の無人化などが進んでいきます。それでも技術革新が新たな産業を興し、失業した労働者がそこに転職できればいいけれど、そこでも最初から先端技術で人手が少なくて済んだりしたら、脱労働社会化が本格化していきますね。職場で働く人が少なくなったのに、機械の改良で強められた労働が特別剰余価値を生んだという論理では納得する人はいなくなるでしょうね。

7、「完全雇用政策」は「バカの壁」か?

省力化総ての分野に広がれば、完全雇用はもはやアナクロ

  ではマルクスの剰余価値論の特色を見たところで、それを参考にしながら、21世紀の価値理論を構築する議論に入りましょう。労働者の労働だけが価値を生むという発想では、とにかく大部分の人が労働者になって価値を生んでもらわなくてはなりません。みんなが豊かに暮らせるためにはできるだけ多くの人が労働して価値を生むことが前提です。その上で格差で富が行き渡らないようなことがないように、所得を再分配するのが財政の仕事だということになります。

 政治家も経済学者も一般国民も先ずは雇用を完全雇用に近づけることが先決で、その上で社会保障体制を充実させようということで、20世紀のパラダイムを作ってきたわけですね。その雇用第一主義をトランプ大統領は病的にまで叫びまして、票を獲得しようとしました。環境よりも雇用、コロナ対策で命を守るよりも雇用です。対中貿易戦争も貿易赤字が膨らむということは国内生産が落ち込み、結局雇用が減るからですね。

   環境問題は深刻でカルフォルニアが地球温暖化が原因の山火事でほとんど砂漠になろうとしているわけですね。これでは産業基盤が失われ、雇用もなくなってしまいます。先ずコロナを抑え込まないと、力強い経済回復もできないわけで、結局雇用もなくなります。

   だからトランプの行動は理性を失っているのですが、それぐらい必死に雇用を第一にして雇用不安の心理に訴えないと票にならない程雇用不安が強いということです。だって21世紀の技術革新は、大幅な省力化を伴いますし、それに付随して生まれる新産業でも最初から最先端の技術が取り入れられていてそれほど雇用が増えません。それで着実に脱労働社会化が深まりつつあると感じているわけです。

   雇用第一に拘って、技術革新を押しとどめたり、環境対策やコロナ対策を怠ったら結局、経済発展にブレーキをかけ、国際競争力がなくなってアメリカは凋落していくことになります。「完全雇用政策」は今や養老(ようろう)孟(たけし)さんのいう「バカの壁」になっているわけです。話が通じない時、情報を遮断しているものが「バカの壁」です。脱労働社会化が歴史の必然なら、「完全雇用政策」に拘(こだわ)っても無駄で、社会の凋落(ちょうらく)を招くだけなのに聴く耳をもたないのですね。

8、ベーシックインカムや活動所得の財源は誰が生み出すのか?

生産の増えたる分と所得減そこに生まれるギャップあてれば

   完全雇用が無理なら、ベーシック・インカムを導入して全国民に最低限度の生活を保障すればいいという考えも有力になりつつありますが、自立、自活、フロンティアを国民性としてプライドにしているアメリカではなかなか導入できないでしょうね。つまりみんなが働くことで社会が維持されるという労働価値説では、脱労働社会化の事態に対応できないということですね。

 少子高齢化が進み、年金などで、今まで10人が1人を、5人が1人を支えてきたのが、1人で1人を支えなければならなくなり、保険料負担に耐えられなくなってきていて、破綻すると言われていますね。それでベーシックインカムに切り替えるべきだという議論があります。ベーシックインカムでも労働人口が非労働人口を支えているのには違いないとしても、働いている人も同額支給されるので、高齢者のために若者が犠牲になっているという意識は少なくて済みますから。 

 ところで、10人が1人をだったのが5人が1人をになったら、負担が2倍になるとか、1人が1人をになったら10倍というのも既成の労働価値説が固定観念になっているからなのです。ベーシックインカムが可能になるのもみんなが働いているからではありません。
 
   実際に保険料負担がこの5年間に13%も上がるなどしています。若者は年金の掛け金を払っても、少子化傾向が続けば、支払う人が減ってくるので、保険料負担に耐えられらくなって破綻するから、掛け金が戻ってこないと心配しているわけです。

   保険料には政府の補助があって、支払った額以上に受け取れるようになっています。5人が1人から1人が1人などの人口比を根拠に負担額を増加させたら、保険の意味がなくなります。それだけ少子高齢化したというのは、ある意味省力化が進んでいるということですから、技術革新が進展し、国全体の富は増えていて、1人で1人になっても負担は重くならないのです。労働者の労働だけが価値を生むと捉えるから、みんな国民が負担しなければならないと誤解しているわけです。ですから国民総生産の伸びなどを考慮して、保険料負担の軽減を求めるようにしなければなりません。

   この理屈でいくなら、ベーシックインカムも機械の生産性があがることで、GNPが増加するわけだから、労働者の労働が生み出した価値から財源を得るわけではないというわけです。もちろん機械も含めて人間と考えれば、すべての富は人間が生み出しているわけですが、社会保障の充実は個々の国民の負担が増えることを意味するというのは全くの誤解です。それは既成の労働価値説に拘って文明の進歩で労働時間が減り、直接個々の人間が働かなくても富は生み出されるようになるということを忘れているのです。

9、機械が可変資本になって価値増殖する条件

機械でも減価償却上回る価値対象化せば剰余価値生む

  ということはマルクス『資本論』の労働力商品だけが可変資本であり、他の生産手段は不変資本で価値を増殖しないという根本命題が通用しなくなっているということです。先ずその理屈をはっきりさせる必要があります。そのためにも労働力が可変資本となって剰余価値を生みだす条件は何だったかを確認しておきましょう。

  マルクスは二つの条件を挙げています。ひとつは資本主義社会では、一握りの資本家と大多数の労働者に二極分解していくので、中間階級が労働者に没落するのです。それで労働者は相対的に過剰人口になるということです。もう一つは、技術革新が進むと省力化で常に失業者が街に溢れるので過剰人口になるということです。

   機械が発達したら労働力が省力化されるということは、要するに機械が労働力を代替できるということですから、労働力も一種の小型自動機械として扱われているということですね。まあ労働契約など人格的な取り扱いの問題はあるにしても、結局コスト的に考えて企業にとって有利な方が選択されます。としますと賃金は小型自動機械の減価償却費にあたります。労働力が可変資本なのは、減価償却費以上に製品に価値を対象化するからだと言い直せます。だとしますと乗用車やパソコンやプリンターや汎用ロボットなどの機械が減価償却費以上に価値を対象化すれば、それらも可変資本として機能するということです。

  でもそういう統計はあるのでしょうか?『資本論』でも労働価値説を裏付ける労働時間と賃金や各会社の利潤率がどの程度とかその変遷などの統計とか一切ないのでひたすら理屈の自己展開になっています。マルクスは経済学者じゃないから仕方ないかという言い訳もできますが、経済学者の書も所謂(いわゆる)原理論を展開したものは統計に基づいているわけではありません。

   例えば会社では仕事に乗用車を使いますが、乗用車の減価償却の費用がコストになります。問題は乗用車の使用がどれだけ製品やサービスの価値を高めたかですね。不変資本の場合は減価償却費分は役に立ってくれないと、次の乗用車を買えないわけです。

   乗用車は発明当初は一台づつ作っていたので、大変高くついたのですが、ベルトコンベアーの生産方式になると、フォードの従業員がフォード車を買えるほど値下がりして大衆化したのです。やがて世界中の企業が参入するようになりますと、より低価格で低燃費の車にシェアを奪われるようになります。つまり乗用車の減価償却費は下げ止まりするようになります。他方ビジネスには乗用車は不可欠なので、減価償却費以上に価値を生みます。

    労働力の場合は必要労働時間と剰余労働時間の図式で示されていて、だいたい1労働日が8時間としますと4時間づつで搾取が明瞭なわけですが、生産手段の場合に減価償却費以上に価値移転するのもあれば、減価償却費以下のものもあり、平均すれば減価償却費だけ価値移転されるという説明ですから、たとえば乗用車の場合に傾向的に減価償却費が低く抑えられるという根拠がもっとしっかり示せないと説得力はありません。

   具体的に計算や統計とかは経済学のプロパーの仕事で我々は論理的な展開を述べるしかできませんが、運輸手段の革新は産業構造を大きく変え、産業全体に飛躍的な発展をもたらしてきたのです。蒸気機関車の登場で地球の隅々まで鉄道が張り巡らされ、世界市場が形成されました。乗用車、トラック、バスなどの発展で国内産業が活気づいたわけで、そのもたらした経済効果は計り知れません。

   つまりこうです。鉄道・船舶・飛行機などの輸送手段に輸送費を支払うだけで、販路が全国規模あるいは世界規模に拡大したリンゴ農家は、輸送費の何百倍もの利益を得ることができたので、その際特別剰余価値を生み出したのは輸送手段なのだけれど、その配分を主に受けたのは運輸会社ではなくて、農家の方だったと。

    特別剰余価値というのは、生産組織の改編や機械の改良などによってこれまでの何十倍、何百倍の生産の増加が為されることがあるので、その場合に特別剰余価値が生じるということです。もちろんそれを採用した企業が特別剰余価値を得ることを想定していたわけですが、輸送手段の革新などの場合にその利用によって販路が画期的に広がった場合に、輸送手段が生産性を伸ばした面があるので、特別剰余価値を得るのは主に利用者である場合も考えられますね。

   それでマルクスの論理だと特別剰余価値はその革新が普及すれば解消されるわけですが、他の業者も同じように利用するようになったら特別剰余価値はなくなるということでしょうか?それは例えばリンゴ農家が全部輸送機関を使って全国展開や世界展開をするようになった場合、他のリンゴ農家との差はなくなるわけですが、まだ全国展開や世界展開ができていなくて、生産が伸びない他の農家に比べれば、なくなっていませんね。

10、バブル崩壊と平成30年間の停滞

デフレならサプライサイドは後にして庶民の懐(ふところ)先に潤せ

 そういうことは19世紀や20世紀にも共通していたわけですが、20世紀の終盤あたりから、長期デフレが続いており、平成30年間の停滞と言われています。その前にバブル景気がありまして未曽有の繁栄を誇っていたのですが、バブル崩壊後、景気テコ入れ策がうまく機能していません。財政赤字が膨らむばかりです。元々技術革新が進み、エズラ・ヴォーゲルによると、ジャパン・アズ・ナンバーワンに成るのではないかといわれていたのに、今や最先端分野で中国に水を開けられつつある状態ですね。もし私が指摘しているように、労働者の労働だけが価値を生むのではなくて、機械も含めた人間が全体として労働して価値を生んでいるのだったら、何故技術革新が頭打ちになってしまったのでしょうか?

エズラ・ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』

   脱労働社会化が深化したのがバブル景気の原因です。日本は技術大国化しまして、最先端分野に特化して、アジア諸国と棲み分けを図ろうとしていました。それで軽薄短小のハイテク商品の輸出が好調で、外貨が入り、企業は利潤を貯め込んでいました。しかし省力化を伴う技術革新だったので、一般の労働者の所得は伸びず、国内市場は広がらないので、それ以上技術革新に投資して生産を伸ばしても売れないし、最先端分野はなかなか投資効果が見込めません。

  それで利潤を技術革新ではなくて、投機に回すことになり、不動産・株式・絵画などが投機対象になってみるみる値上がりしていったのです。その投機で儲けた金が株主や一部の人々に入って、高級品が売れたり、海外旅行やディスコで扇子をもって踊りまくったりしたわけです。

   実体経済と乖離した投機は当然規制されてバブル経済は崩壊し、各企業は膨大な負債を抱え込んで、技術革新が進まなくなります。国内の内需は省力化で冷え込んだままなので、不況が深刻化し、放っておくと倒産が相次いで恐慌になるところですね。

   従業員が五名程度の零細企業でさえ数億円の負債を抱えていましたからね。銀行は倒産させると損失を計上することに成るので、倒産させずに持ちこたえさせます。政府は公共事業と民間設備投資に補助金を出して何とか景気を刺激して、内需拡大を図ろうとしますが、省力化で雇用所得が減っているので、生産が増えたらデフレが深刻化するだけで、財政の累積債務は膨らむばかりだったわけです。

   デフレの時期に生産を増やす方に重点的に回すと余計にデフレになります。直接省力化で所得の減った家計を補填(ほてん)したり、全国民にデフレを解消させるためにマイナスの所得税でお金を回して、とりあえずデフレを解消させるべきだったのです。

    国民にお金を回しても果たして国産品を買うか、中国から低価格商品が洪水のように入って来ていて、所得の落ちた人々はそのおかげで食いつなげたわけです。だから国際競争力を回復し、国際分業体制をうまく構築できないと、消費に直接お金を回しても国内産業の空洞化は進む一方という難しい問題があるので、政府は先ず企業にお金を回して、企業が立ち直れば雇用も回復し、内需も増えるというスタンスでデフレを深刻化させてしまったわけです。

11、学習報酬制と教育改革でデフレ脱却を

学力が生産力の基礎なれば教育第一国の基(もとい)か

 学力が生産力の基礎なれば教育第一国の基(もとい)か確かに企業の先端技術を性急に伸ばそうとしても投資効率は落ちるばかりですから、それよりその国の技術水準、生産力水準は高い文化水準の上に構築されるのだから、かなり荒廃していた教育の立て直しに投資すればよかったかもしれません。例えばすべての児童生徒にパソコンを持たせ、AIを使った教育を推進すれば、需要も持ち直すし、将来投資にもつながった筈です。

ZOOMを使った授業

 パソコンを導入することで、教材を充実させ、すべての講義をyoutubeにいれたり、zoomでの受講がどこからでもできるようにするなどと結びついたら、大きな教育改革につながりますね。今のままの年齢による学年制の教育では、学力を効果的に伸長させ、個性を伸ばすことはできませんから、教育投資はどぶにお金を捨てるようなものですが、教育改革をすれば日本は国際競争力を取り戻せます。

 そこで私は学校教育の抜本的な改革を提唱しています。つまり到達度に応じたクラス編成です。単元ごとにクラスを編成します。その際そのクラスを受講するにはどの単元を履修していなければならないかはっきりさせるのです。後は年齢は問わない。それと関心のある科目に関するゼミと組み合わせます。それでいくと小中高大の垣根はなくなります。だから入試も入学・卒業、進学というのもなくなります。学校格差などの弊害もなくなります。最も効率的に学力がつき、個性が伸ばせるし、職業資格も得れるのです。

 その上に、学習報酬制が結び付けば、デフレ解消にもなる筈です。つまり出席、単位履修、成績優秀あるいは業績などに対して報酬するのです。いままでは教育を受ける側が謝礼を学費という形で支払っていたのを、逆転して学習活動を文化を継承し、経済的な生産力や消費力の基礎を形成したとして社会から報酬される制度にします。

 民主党のアメリカ大統領候補選で頑張っていたサンダースは教育無償制を提唱していましたが、無償なら親に負担をかけていないということで、親への負い目から勉強しなければならないという気持ちが働かなくなり、教育効果は減るおそれがあります。無償ではなく、教育を受けると報酬をもらえる制度にするのです。その報酬が、量・質・成績などで支払われるとしたら、当然競争原理が働いて、教育効果は大きくなります。

 最近は雇用不安もあり、格差拡大がひどくなって、子弟の教育費の負担が十分にできず、アルバイトで賄(まかな)う学生が増加しています。それにコロナ禍でバイトもなくなり、困窮している学生が多いですね。これは教育の機会均等の理念からいって由々(ゆゆ)しき問題です。もしベーシックインカム並みに学習報酬制の給付を実施するとなると、それでなくても1千兆円を超える累積債務を抱えているので財政破綻してしまうと心配する人が多いのです。それに学校は学生から授業料を負担してもらえなくなるので、学校の運営費も財政から賄わなくてはならなくなります。だから全く非現実的な夢物語だと、私の提案は批難されています。

 でも1人月額7万円のベーシックインカムが実施可能だということですから、その範囲内なら実施可能ですね。7万円×12月×1億2千万人で約百兆円かかりますが、年金給付や生活保護給付などは必要なくなるので、所得税の増税だけで賄うとしますと、約25%の増税になりますが、本人も含め家族全員が7万円給付を受けられるので、ほとんどの家庭が増収になります。デフレ期ですと赤字国債で賄ってもインフレにならない範囲ならOKです。

 技術革新に伴う省力化で失業した労働者が再雇用されるのがなかなか難しくなってくるので、職業訓練校や学校で学んで、訓練や学習に対する報酬を受けられるようにすれば、収入の落ち込みを少しでもカバーできますね。そうしないと国内の需要は落ち込んで、深刻なデフレ不況になります。

12、政府は「打ち出の小づち」をもっているのか?

日銀は打ち出の小槌にあらざるやイノベーションの進みたるなら

 どこからその財源を捻出するかですが、財政から出すと増税になって、国民の負担になってしまいますね。ところが省力化が進んで、脱労働社会化が深化していくと、国民の大部分は所得がなくなるので、税負担増には耐えられません。

 そこで何故、省力化が進んだのかに注目すべきです。それは技術革新が進み、AIやロボットによる代替がなされて、その結果生産性が増大したからです。ですから国民の大部分の所得がなくなっても生産は飛躍的に増大しているのです。それで世界市場を席捲すればいいけれど、諸外国でも負けじと産業構造の高度化を図っているので、なかなかそうは問屋が卸しません。そこで国内過剰生産になって、深刻なデフレ不況になるので、せっかくの技術革新が自分で自分の首を絞める企業の自己疎外になってしまいます。

 竹中平蔵は技術革新を進め、産業構造を高度化するには、労働者の流動化を図る必要があり、解雇できない正規雇用の比率を下げるのは当然みたいに言ってますね。しかしその結果がデフレ不況のわけで、なんとか所得を補填せざるを得ないので、遂にベーシックインカムを導入するよう提唱しています。

竹中平蔵ー全員にBIを支給するが、基準以上の所得があれば、返上させる。

 ベーシックインカムで一時的にしのげても、今度は最低限度が標準になり、しかもそれで一応文化的な生活はできるということで、脱労働化して雇用がなかなかない社会で無理して職探しをしなくなるので、停滞した社会に成ってしまう懸念があります。

 ベーシックインカムの是非は今回のテーマではないので、それは棚上げにして、ベーシックインカムにしても別の形の所得分配にしても、その財源の根拠が納得いく形で示されないと困ります。政府は「打ち出の小づち」を持っているということでしょうか?

 ある意味発券銀行は「打ち出の小づち」ですね。話の前提として技術革新が進展した結果、省力化が起きているので、富は増加し続けている。それが購買され、消費されないと経済循環は詰まってしまうわけで、消費者に所得が回るようにしないといけません。政府は富の増加に比例するように通貨量を調節する必要があるので、日銀に赤字国債を引き受けてもらうことで通貨量を増やして財源にして消費者に回すわけです。インフレにならない範囲なら支障ないということです。

 その富を増やしたのは労働力を機械に代替したことによってですね。竹中平蔵のいう首切りですね。だからマルクスの「特別剰余価値の生産」の論理だと、首切りを免れた労働者が新鋭機械によって強められて生産したことに成るけれど、さすがに人口の1割未満しか雇用される労働者がいなくなっても労働者の労働が価値をすべて生産しているというのは言い辛いですね。

 機械が勝手に人間を無視して生産するわけではないけれど、生身の労働力に代替した自動機械などが労働力の何倍も富を生産し、減価償却分だけではなく、はるかにその何倍、何十倍も価値を製品に対象化しているとみなしていいでしょう。そう考えると機械に人間が圧倒されて支配されるような印象を受けるかもしれません。

13、包括的ヒューマニズムの時代

人間に機械・環境包摂し、経済循環捉え返せよ

 人間を生身の身体に限定して捉え、機械をその対極に置いたら機械文明が究極まで発展して、生身の人間は居所をなくしそうで、しまいに機械だけが残って、そこに機械や製品だけで経済が循環する無人社会ができないとも限りませんね。それは自己意識あるロボットができてしまうとあるいはそうなる可能性もありますが、それを避けるためにも、機械を包括した人間観を確立しておく必要があります。

 ほとんど無人の自動車工場で生み出される自動車も、人間が作ったのであって、その場合の人間には自動機械も含まれているということですね。その場合にその自動機械は減価償却費の何十倍、何百倍の価値を生みだすということですね。ところがそうして作った乗用車を購買できる所得が、省力化で職場を追い出された労働者にはないわけです。21世紀は自動機械の採用による工場の無人化や、AIを活用、ロボットによる労働力の代替はどの職場でも起きるでしょう。そうなると機械は生産手段でしかないから、生産主体ではなく、従って機械は労働していないとはとても言えなくなってしまっています。

 それで若きマルクスの疎外論を見直す必要があります。社会的諸事物も人間の非有機的身体として人間に包括する「包括的ヒューマニズム」に立ち帰る必要があるのです。それで機械も減価償却費以上に製品に価値対象化すれば、機械も可変資本化し、剰余価値を生み出していると捉え返すべきです。

 脱労働社会化すると搾取すべき労働者がいなくなるので、剰余価値もなくなり、利潤はゼロになると考えがちですが、それでは脱労働者化した人々が所得を得る元に成る価値がありません。

 脱労働社会化がすなわち搾取体制の終焉(しゅうえん)であり、資本主義体制自体の終焉と捉えてはいけないのかという質問がありますが、脱労働者化した人々も、自動機械が生み出す剰余価値を分配されることで資本の循環に包摂されますから、賃労働と資本の関係としての資本主義はほとんど終焉するとしても、商品―貨幣ー資本を基軸とする資本主義体制自体は当分終焉しないと捉えるべきでしょう。

 結果的には自動機械が生み出す剰余価値を国家の財政機能を使って国民に分配するとしたら、企業は国家に支配されていることになりますね。国家的な社会主義の一変種ではないかと懸念する人もいます。

 確かに国家が国民に直接所得を与えることで、資本主義企業が生み出した富を国民に分配するのですから、その分配の仕方に企業が大きく左右されることになりますが、企業自体の運営権は企業自身にあるので、社会主義とは言えません。価格には利潤が含まれています。

 それで脱労働者化した人々が所得を得れないと経済循環が成立しないので、財政からの給付は必要不可欠になります。ベーシックインカムでは、人口の大半がベーシックインカムしか収入がなくなるような脱労働社会になれば、最低限の生活費が所得の標準になるので、停滞が避けられないとしますと、活動所得制を導入せざるを得なくなります。

 拙著『学習、文化・スポーツ、ボランティアに報酬せよ』を参照願います。先ず学習報酬制を採用し、それが定着し、教育効果も上がり、経済も活性化するのを確かめてから、文化やスポーツそれにボランティア活動にも活動時間・質・貢献度を査定して報酬します。

 ただしベーシックインカムが手間(てま)暇(ひま)、コストがかからないのに対して、量・質・貢献度を図るとなると膨大な費用がかかり、公正を期すのも大変難しく、またそのためには活動を管理できなくてはならないので、その方法を巡ってかなりもめそうだから、活動所得制は非現実的だという人も多いようです。

 しかしだからこそハイテク技術を使って行うことになり、その面からもAIやロボット技術の進歩を刺激します。その議論は『学習、文化・スポーツ、ボランティアに報酬せよ』を参照してください。今日の議論はマルクス『資本論』の剰余価値論を批判的に検討することによって、脱労働社会における新たな『剰余価値理論』を構築しようとするものです。

 私は、社会的に有意義な活動に対して所得を与える「活動所得制」の導入を提唱しているわけですが、労働価値説のパラダイムに囚われている人からは、倫理的にも反撥があるようです。つまり労働は価値を生むからそれに対して報酬があったわけですが、社会的に有意義な活動は価値を生んでいるわけではないのに、価値を取得する権利が与えられることになるのは納得いかないというわけです。

 それに、機械が生み出した剰余価値の分配に与るとなると、機械に飼育されている家畜の群れみたいな感じで惨めですね。それは既成の労働価値説に囚われているからです。

 元々、人間は労働だけで富を生み出していたわけではありません。様々な生活活動の中に労働もあるのです。商品経済では生産に要した労働時間を基準に価値を推定するのが便利で、説得力があっただけです。

 利益や賃金を元に生活をし、その他の活動に所得を回していたわけです。子供の教育費とか文化やスポーツにかかる費用とか、ボランティア活動費なども経済活動の利益や賃金を回してやりくりしていたわけです。
 
 それが雇用所得がなくなってしまうと、子供の教育費も文化・スポーツやボランティアもできなくなってしまい。最低限度の文化的な生活ができません。そうなればそうした有意義な活動も富の生産に必要不可欠だったとして、その量・質・貢献度に対して報酬をもらわないと生活が成り立ちません。そこで活動も商品の価値を形成しているのだという活動価値が商品の価値を構成することになります。

 雇用所得がなくなってしまうと、子供の教育費も文化・スポーツやボランティアもできなくなってしまい。最低限度の文化的な生活ができません。そうなればそうした有意義な活動も富の生産に必要不可欠だったとして、その量・質・貢献度に対して報酬をもらわないと生活が成り立ちません。そこで活動も商品の価値を形成しているのだという活動価値が商品の価値を構成していると解釈されることになります。

 今までは雇用労働が活動価値の分まで価値を形成していたことにしてもらっていたのが、脱労働社会では、賃金がもらえなくなるので、他の活動は自分の活動に対する報酬を受けなければならなくなるということです。

 それで学習、文化・スポーツ、ボランティアへの活動所得だけで家計がやりくりできるようにしようということです。他に家事なども必要不可欠ですが、最近は家事分担で特定の人だけがしているわけでもないし、量・質・貢献度評価もやりにくいので、家事に対しては他の活動所得で得た収入を回すということです。ですから家事労働は本来は価値を生んでいるけれど、学習、文化・スポーツ、ボランティアへの活動所得から回すようにしようということです。

14、疎外された労働から疎外された活動へ

活動に所得の源泉移りなば、労働疎外は活動疎外に

 
しかしそうなると本来報酬目当てでなかったこれらの活動が、お金の爲、生活のためとなってこれまでのように自己目的的に楽しめなくなってしまいます。残念ながらその通りです。脱労働化によって、労働自体からの排除がなされます。これは疎外された労働の極致ともいえます。もう労働しなくてもいいという意味では疎外された労働からの解放ですが、私的所有に基づく商品経済自体はなくなっていませんから、疎外から解放されることにはなりません。代わりに活動所得制度ができますと、労働によって所得を得ていたのが、活動によって所得を得ることになるのですから、今度は活動が疎外される番です。

 例えば成績を上げるために好成績者には賞金を出すとしますと、初めの内はそれが刺激に成って成績が上がりますが、関心がお金の方にあるので、学習内容自体には興味が湧かなくなって、長期的にみれば逆効果だというのが、教育心理学の実験でも証明されているそうです。

 しかしそれは保護者に収入があって、学費も生活費も依存している学生を相手に実験しているわけです。雇用労働がなくなり、親に収入がなくても学校に行って学習に取組めるでしょうか? 脱労働社会では学校を出ても就職口はほとんどありません。知識を得てもそれで生活する力がつかないのだったら、何のために勉強するのかわかりませんね。そうなれば学習報酬がなければほとんどの学生は学習しなくなるでしょう。

 労働するのは本当はそれを消費する人に喜んでもらうためですが、それで一銭にもならないのだったら誰も働きません。雇用労働がなくなれば、学習も学習報酬なしではだれも学習しなくなるのです。その代わり学習報酬があるとなったら、生活のために少しで多くの収入を得ようと必死で頑張る人がたくさん出て、学力水準がどんどん上がっていきます。

 文化やスポーツまで生活のためというのではレジャー気分を味わえないし、すぐにお金に換算して格差づけし、人間を差別するようになる恐れがあります。その弊害は深刻でしょう。おまけにボランティアまでお金のためにするとなったら、ボランティアではなくなってしまうということです。

 学習、文化・スポーツ、ボランティアというのが自己目的として行われているかどうか、金目当てで行われていないどうか、それは個別に当たってみなければ言えませんが、もしある程度疎外されずにやれているとしたら、それは労働が疎外されているお陰ですね。

 もちろん疎外された労働も創意工夫次第で、自己目的にしたり、誠心誠意顧客のために己を無の境地において行うということも挑戦されていますので、たとえ社会的に有意義な活動から活動所得を得る時代になっても、それらの疎外を軽減する試みは大いに行うべきです。しかし金銭報酬が与えられる以上疎外的な構造になるのは間違いありません。しかし私的所有や商品経済が続く以上、脱労働社会においてはそれは反対の理由にならないということです。

 既に文量がかなり超過していますので、最後の論点にしますが、活動も価値を生むという活動価値説では、活動が剰余価値を生み、搾取されるということはあるのでしょうか。

 労働も活動であり、現に剰余価値を生んでいます。ただ活動所得制は、今のところ財政から家計に支出するということで、活動の量・質・貢献度が数量化されます。これは最低限度の生活費は全国民に保障するというのが大前提ですので、1日5時間は真剣に活動したと認定されたら、その内容の複雑度は無視して基本給は支給されます。

 質に対して報酬する場合は、何段階に区分けして評定します。これは必ずしも2倍の質があれば2倍というのではなく、質的向上を目指すように奨励するのが目的ですから、活動の種類によって社会的に増加させる必要のある活動に対しては厚遇されます。そうでなければ最高段階でも基本給の何倍かに止まるということです。ですから当然生み出した価値以上に所得を得る場合もあれば、生み出した価値の十分の一も支給されない場合もありえますから、そういう場合は剰余価値を搾取されることになります。民主主義社会だとそれぞれの団体があって、各活動の社会的意義を主張し合い、調整することになるのでしょうね。

 以上、やはりマルクスの『資本論』の価値理論の問題点を整理し直した上で、はじめて脱労働社会における所得配分の新方式が打ち出せるということなので、この議論は21世紀の『資本論』の試みということになりますね。

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