やすいゆたか新春の御挨拶2024年元旦

すいゆたか挨拶画像

https://mzprometheus.wordpress.com/2023/12/29/yasuiyutakanengaaisatsu2024/
https://youtu.be/wSTX2a2zwBk
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくご厚情の程お願いします。

幟(のぼり)龍

今年は2024年、令和6年です。辰年ですね。幟龍の勢いで頑張ろうと思っております。

 とは申しましても既に78歳になっておりまして、西田幾多郎先生が亡くなられた75歳をとっくに超えております。西田先生は「後幾たびの桜なるかな」と余生が短いことを意識されて、前のめりに晩年の著作活動をされています。58歳で定年退官されてからの著作の方がそれ以前の著作よりも多いようですね。

西田幾多郎先生

 私も還暦以降の方が、それ以前よりも多作になっているようです。それはかなりの部分がAIの進化によるITの発達のおかげです。私の生身の頭脳自体は既に老化が進んでいますが、WEBを活用して時代に取り残されないように頑張っています。近々『岐路に立つ資本主義』の続編も発刊する予定です。

さて 今年は引き続いて「二つの虚妄」と対決することを課題にしています。

 一つは近現代の虚妄です。それは生身の人間だけが富を生み、価値を形成しているという虚妄です。

 もう一つは日本の古代・中世の虚妄です。実は天皇家・摂関家などの皇族・貴族の血統が聖なるものとして続いているという幻想を、物のまぎれの必然性を示してその虚妄性を暴いたのが紫式部の『源氏物語』です。

 ただ血統が虚妄であるだけでなく、皇族・貴族の行動がいかに身勝手で無責任であるかを描いて、行動においても貴族としての聖性は虚妄であることを示しているわけです。そしてその美意識も桂の月は淡路の月よりさやかで近く大きく見えるというのは虚妄だと暴いているわけです。

 その虚妄性を自覚し、血統などに頼らずに真実の愛や美を求め創造すべきだということですね。そういう批評眼をもって光源氏たちの生態を赤裸々に描いて、どれだけ雅に迫れているのかを表現しているのです。しかしそういう紫式部の批評を全く理解しようとせず、ただ主情主義的にだけ受け止めたのが本居宣長です。桂の虚妄の月影に関して、紫式部の批評を理解した歌人や『源氏物語』研究家はほとんどいないようです。そんなことで近現代の虚妄に気付き、未来を切り開けるのかということですね。

 岸和田健老大学では『源氏物語の大航海』が「第26帖 常夏」で進んでいます。この度毎日文化センター梅田校(環状線最寄り駅福島駅)で月1回の連続講座『キラリ光る『源氏物語』紫式部の批評眼』を2024年1月から開講する予定です。しかし一定数受講者がないと開講できませんから、奮ってご参加いただければ幸甚です。 
(お申込み、お問い合わせTEL06-6346-8700 FAX06-6346-8703)

 またフェイスブックに『源氏物語』研究会を立ち上げました。是非ともご入会下さい。
https://www.facebook.com/groups/911984490598921

 近現代の虚妄は、生身の人間だけが富を生み、価値を形成しているという幻想です。道具や機械を使って、富や価値を形成しているけれど、それはあくまでも主体である生身の人間が、手段として使っているだけで、道具や機械が造っているわけではないという理屈ですね。道具は職人の手の延長として手助けをしている感じですが機械となると、機械が原材料を製品に加工しているようにも見え、労働者は機械の補助役にも見えますね。

 それに機械が改良されると、労働者の代替をするので、多くの労働者は失職し、所得が減少します。それでかえって過剰生産で恐慌が起こったりしました。それでも技術革新が産業の規模を大きくして新しい職場ができ失業者を吸収して、資本主義はダイナミックに発展してきました。それが二十世紀末からは、新しく起こった産業も自動化が進んでいて多くの労働者を雇用できなくなり、それで日本の場合30年以上もデフレから脱却できていません。

 第四次産業革命が本格化すれば、汎用ロボットの普及や無人自動車化などで、雇用は人口の1割未満に落ち込むのではないかと言われています。それでも富や価値はかえって増加するのですから、生身の人間だけが富や価値を生むという捉え方はますます説得力がなくなります。

 しかし旧来の固定観念に固執していますと、富や価値は資本家・経営者・エリート化した高級技術労働者だけが生み出したことにされてしまい、彼らに独占されて、それ以外は余剰人口として遺棄されるか、最低限度の生活費を与えられて飼育されることになります。

 そうなるとごく一部の超富裕層と大部分の低所得層に分かれてしまい、全体としては所得は伸びなくなり、経済は停滞することになります。しかし自動機械の発達などで富はみんなが豊かに暮らせるだけ作り出せるわけですから、所得がなくなったり、減少した国民に補填し、生産力が発展した分はある程度国民全体に配分したらいいのです。

 例えば国民年金などは少子高齢化で5人が1人の高齢者を支えていたのが、1人1人の高齢者を支えなくてはならなくなったら、保険料が5倍となれば、とても支払えません。また今後若年人口が増えなければ5倍払った人は、払っただけ受け取れないことになりかねませんね。しかしどうして少子化したかというと自動機械によって労働力が代替されたからです。だから生産は増えて居るので、機械がたんさん富や価値を生んでくれています。なにも所得が増えていない人まで何倍も出す必要はないわけです。

 同様に自動機械やロボットが生み出す富や価値を担保に政府は所得を国民に直接分配すると、それで経済は循環することになります。それは決して一部の富裕層の生み出した富や価値を回してもらったわけではないのです。じゃあ自動機械やロボットが生み出した富や価値で飼育されるので、機械に人間が支配され、飼育されるディストピアになるのではと心配する人もいるでしょう。

 しかし機械がいくら富や価値を生んでも、売買され、消費されなければ、経済循環は止まり、操業は停止されます。つまり機械は生身の人間が様々な活動をして富を享受し、自己実現を図るために存在しているのです。機械は生身の人間を労働の現場から放逐したとしても、生身の人間の活躍なしには存在できません。中国には空室だらけのマンションや機械の稼働率が半分以下の工場がたくさんあるそうです。

 だから社会的に有意義な活動、学習、文化・スポーツ、ボランティアなどの活動の報酬として、その量・質・貢献度に応じて富や価値を配分すれば、それで経済が循環し、自動機械もより発達できるわけです。それを生身の人間には生存権があるからと言ってBI(ベーシックインカム)を支給する形では、生身の人間たちのやる気を引き出すのは難しいでしょう。

 高度な技術者の労働や機械が価値を生んでいると同時に、脱労働者化した人々も社会的に有意義な活動を通して活動価値を生んでいると捉えて、それに対する報酬と捉えると、生身の人間の活動と機械の生産は表裏一体のごとく見なせるようになるのです。

 それで生身の身体的諸個人だけでなく、社会的諸事物や環境的自然も包括して、その全体を人間と見なすような人間観が求められます。それが包括的ヒューマニズムです。近現代の幻想、生身の人間だけが富や価値を生むという幻想を打破しない限り、包括的ヒューマニズムに目覚めることは難しいでしょう。

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