日本建国の謎を解く:一、日本国発祥の地は河内である。文責 やすいゆたか


三貴神による三倭国建国地図

週刊やすいゆたか再々刊16号18年8月8日より転載

1、建国記念の日は亡国記念の日ではなかったか

西高輝彦:やすいさんは「建国の謎を解く」ということで8月18日には「一、日本国発祥の地は河内である」ですね。日本国は記紀によると、紀元前660年に神武天皇が大和橿原で建国宣言をしたのでしょう。『日本書紀』に「辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮」とあります。

橿原神宮のパンフレット

やすいゆたか:もちろん辛酉年は辛酉革命説によるもので、紀元前660年の神武東征はありえません。とは言え、磐余彦一族による東征があって、饒速日王国が倒されたのは、歴史的事実でないとする根拠はありません。

西高:神武東征が証明されていないわけですから、饒速日王国の存在やその滅亡についても確かなことは言えないでしょう。

やすい:歴史的事実でないとする根拠はないのですが、かといって歴史的事実であるという確たる証拠も残っていません。当時の同時代の歴史を記した文書は残っていないわけですから、だから歴史的事実だと断言することはもちろんできませんが、三輪山から昇る太陽に対する信仰として饒速日神がいて、饒速日王国が存在していたことは、記紀伝承から想像されますし、その事を否定する材料はありません。

饒速日命

西高:その饒速日神は磐余彦(神武天皇)に臣従したことになっていますね。そして物部氏の族長になったということです。それで大和朝廷が成立したということですから、それが日本建国でいいのではないのですか?
やすい:それはとんでもない話です。だって饒速日王国は太陽神が支配するという意味で「日本国(ひのもとのくに)」だったわけですから、日本国を倒して、日本国を建国したことになってしまいます。むしろ日本国の「建国記念の日」というより「亡国記念の日」というべきです。

     2、天照大神は七世紀末の創作か?

西高:饒速日王国は確かに太陽神の支配する国ですが、国名は「日本国」だったというのは初耳です。何か文献的な根拠があるのですか?それに神武天皇は天照大神の孫である邇邇藝命の曾孫ですから、天照大神からの皇統を継承しているので、大和朝廷は太陽神信仰の国家だと言えるのではないでしょうか。

やすい:その話は神武東征は日本の建国かという問題で次回(11月17日)の主題ですから、その時に詳しく検討しますが、実は万世一系は最初の天照大神のところで月讀命に差し替えられているのです。

西高:ということは太陽神信仰の国が月讀命信仰の国に取って代わられたので、初期の大和政権は「日本国」ではなかったという話ですね。もしそれが本当だったらびっくり仰天なのですが、天照大神とか月讀命とかいうのは記紀神話が形成された七世紀末に考え出された名前で、したがって大王家がどの神の子孫だったかというのは、神話上の問題に過ぎず、歴史上の問題にすべきではないということらしいですよ。

やすい:天照大神信仰が何時からかというのも歴史学上論争になっていますね。というのが饒速日王国が少なくとも一世紀以上続いた上に、饒速日神はその後も物部氏の族長として祭祀を行っていて、それは物部守屋まで続いていた可能性があります。それで古い天照神社が全国にありますが、その御祭神の天照は「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」を指しています。それを根拠に挙げて、梅原猛先生も含め、七世紀末まで天照大神信仰はなかったのではという解釈が存在するのです。

西高:崇神天皇の時に過半の人民が死に絶えるような祟があって、倭大國魂命(大物主命の荒魂)と天照大神を宮中に祀って、どのようにお祀りしたら祟らないですむのか問いただしたところ、天照大神は倭大國魂命に怯えたので、外に出したという話があります。それから畿内各地を転々とした伊勢にたどり着いて伊勢神宮に祀ったら落ち着いたという話がありますね。その天照大神も饒速日神だったということですか?

やすい:どうして倭大國魂命と天照大神を並べて祀ったかですが、それはどちらの神が祟ったか分からなかったので両方祀ったということです。つまり両方とも大和朝廷にとっては祟り神だったのです。ということは饒速日神は、磐余彦命に臣従してしまったので、立場上祟れません。饒速日王国が天照王国の後裔とすれば、天照大神は自分が建国した国を滅ぼされたので祟ってもおかしくありません。

西高:しかし磐余彦は天照大神の孫の邇邇藝命の曾孫なので、天照大神は祖先神なので祟れませんね。でもやすいさんの解釈では実は邇邇藝命は天照大神の孫ではなく、月讀命の孫だったということですから、その仮説が正しければ天照大神は大和政権に祟っても可怪しくないということですね。

元伊勢地図

やすい:宮中から出て、伊勢にたどり着くまで様々なところに祀られていたのですが、それが今も元伊勢と呼ばれる神社として残っています。もし天照大神が主神であり、大王家の祖先神だったのなら、各地を放浪する必要はなかったのです、祟り神として恐れられていたからこそ、天照大神の御神体が滞在した神社は、各地で恐れられて居心地が悪かったということでしょう。

西高:ということは記紀にあるように饒速日神の祖母が天照大神だったということですか?

天照大神は男神として描かれていた

やすい:元々の伝承では、祖母ではありません。祖父でした.。須佐之男命と宇気比をして生まれたのが天忍穂耳命でした.。須佐之男命を相手に宇気比して子を造るには女神でないといけなかったので、元々は月讀命が女神だったのを、天照大神が女神だったことに差し替えたのです。
 つまり天照大神は男神で河内に来て、河内湖畔の草香に宮を建て、瀬織津姫との間できたのが天照二世です。ですから天照大神の孫は饒速日神ですが、邇邇藝命は、天照大神の孫ではなくて、月讀命の孫なのです。

西高:元々の神話がそうなっていたということですか、それとも歴史的事実としてもそうだったのではないかということでしょうか。

やすい:三貴神の実在性も含め、科学的に実証できるわけではありませんので、歴史的事実を確定することは不可能です。元々の伝承ではこうなっていたのを七世紀に改変されてこうだったとされているとしか言えないということですね。

    3、三貴神は「御宇の珍子」であるとは?

西高:それじゃあ宇気比で月讀命と天照大神が差し替えられたということをどう説明されるのかですが、それは大きなテーマなので、差し替えがあったとして、話を進めますが、天照大神が河内湖に入って来て、草香津に宮を立てたという伝承がのこっているのですか?

やすい:残っている筈がありません、だって記紀では天照大神は高天原に上げられて、高天原を支配していることになっているわけですから、それを否定するような伝承を唱えたら、弾圧されます。戦前だったら、私も特高に呼び出されて拷問死させられていたかもしれません。

西高:じゃあどうしてそんなことが考えつかれたのですか?

集英社1985年版

やすい:それは谷川健一著『白鳥伝説』に書いていますが、草香が「日下」とも書きますね。つまり「日下(ひのもと)の草香」という慣用句があったので、「日下」と書いて「くさか」と読めるということなのです。ちなみに月讀命が宮を立てたのは博多湾の草香江のほとりだったと思われますが、そちらは「日下」とは書かないようです。
西高: 「日下(ひのもと)の草香」は太陽神が支配する草香という意味でそこに天照大神の宮があったと地名から想像できるということですね。ではどうして饒速日神の宮ではなくて、天照大神の宮だと分かるのですか。

この地図は難波堀江があるので西暦5世紀です。

やすい:記紀では、伊邪那岐・伊邪那美の夫婦神は、高天原から出て、天の浮橋にたち、天の沼矛でかき回して大八洲を生んだということですが、これは水運によって大陸の文明を大八洲をもたらしたということを象徴的に示しています。
 三貴神は伊邪那岐が亡くなった伊邪那美の黄泉の国を訪ねて、そこから逃れてきて、黄泉の穢れを濯いだ時に神生みをしまして、その最後に生んだのが三貴神です。

西高:生み納めだったので貴い神なのですか?

やすい:『日本書紀』で「御宇の珍子」、『先代舊事本紀』では「御寓の珍子」と呼びます。宇とか寓とかは現世とか世の中ということで、大八洲を意味しています。つまり夫婦神が文明をもたらした大八洲に三貴神を派遣して建国させるということなのです。建国神だから貴い神なのです。だって、記紀は建国史が最大のテーマですから。

西高:天照大神は高天原に上げられ、それまでまだ国になってなかった高天原を建国したのではないのですか?

やすい:それは造化三神つまり天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神が成出たけれど、すぐに隠れたことに記紀ではなっているので、そういう印象を与えるのでしょう。しかしそういうことにしたのは、七世紀になってからの改変によってです。つまり天照大神を高天原の主神だったことにするために造化三神がいたら邪魔だろうということで、隠れたことにしたわけです。それで造化三神についての伝承もかなり消されてしまったわけですが、実際には活躍していたので、その後の話でも高御産巣日神や神産巣日神は出てきますね。

西高:神産巣日神は大穴牟遅命を生き返らせるとう話ぐらいですが、高御産巣日神は、出雲帝国を滅ぼして国譲りをさせる話や、神武東征を支援する話などかなり重要な役どころを演じていますね。確かに隠れている筈なのにおかしいなとは思っていましたが、どうせ神話は作り話だからと重大には考えていませんでした。

やすい:そういう矛盾点から元はどうだったか推察することができます。つまり造化三神が高天原を仕切っていて、三貴神は建国神として大八洲に国を建てたということですね。

     4、三貴神はどこに建国したか?

西高:だとすると三貴神はどこに国を建てたかということで、須佐之男命は海原を治めよといわれていたのに、母に会いたいと泣きいさちってばかりで、災害をもたらしたので、海原から追われ、大八洲を転々とした後で、出雲で八岐大蛇を退治して出雲倭国を建国したことになっていますね。

やすい:倭人の国は大八洲にたくさんあったと思いますが、記紀では河内・大和、筑紫、出雲が重要な地域になっています。とすると天照大神が建国したのは、孫の太陽神饒速日王国があった河内・大和の地域だということになりますね。

西高:それはどうですか、筑紫つまり九州には日向だけではなく肥前、肥後の「ひ」も「日」だった可能性があり、「豊前」「豊後」も「豊(とよ)日(ひ)」が由来とすると筑紫こそ天照大神の国にふさわしく、孫の饒速日神が筑紫から河内に海下りしたということが考えられませんか。
やすい:それは鋭い分析ですが、それなら月讀命の話が宙に浮いてしまいます。

木花咲耶比売が建国したのが小妻国(後の薩摩)、魏志倭人伝では投馬国と誤記

西高:河合隼雄さんの『中空構造日本の真相』で記紀神話では天照大神と須佐之男命の話ばかりでてきて月讀命の話がほとんど出てこないのは、中をがらんどうにして、バランスをとる日本人特有の平衡感覚みたいに分析していますね。

やすい:さすが心理学者みたいにインテリ受けしていますが、元々月讀命の話がなかったというのは、少しも根拠がありません。
 三貴神という形で三つの建国神が三倭国を形成していたのが、後から何らかの事情で月讀命の話を天照大神の話だったことにする必要ができて、月讀命の事績がほとんど消されてしまったというように解釈するほうがまともですね。

西高:それはどちらがまともかは中身次第ですが。

やすい:だから河内・大和、筑紫、出雲という三大文化圏があって、三貴神を当てはめると、河内・大和は饒速日王国があったというから、天照大神が有力で、では残りは筑紫だけだから、一応これを月讀命とおけばいいわけです。確かに温暖な筑紫なので太陽神でも可怪しくないけれど、月讀命を持っていけなくなるのも困るわけです。
 それに「つくよみ」ですから「つくし」と関連している可能性がある。元々は「つくち」つまり「月地」英語では「ムーンランド」ではなかったかと想像できます。それを「筑紫」にして語源も月とは関係ない語源を考え出して『筑後風土記』に入れています。

西高:ということは元は筑紫は月地で月讀命の国だったのが、忍穂耳命の母を天照大神にすることで、天皇家の祖先が天照大神だったことにするために、月讀命伝承を消したので、中空構造みたいに成ってしまったという推理ですね。

やすい:ええ、饒速日神も邇邇藝命も両方天照大神の孫だったことにして、それで天照大神の正嫡だということで、磐余彦の東征、大和政権の樹立を正当化しているのです。

西高:では何故、三貴神が海を下って三倭国を建国した話を孫の世代の高天原という天空からの天降りにずらしたのですか?

やすい:そうしないと、天照大神が河内にいたら、須佐之男命との宇気比もできませんし、邇邇藝命の祖母にもなれないということです。孫が天降って河内と筑紫に別々の太陽神の国を作ったことにしたら、神武東征も正嫡は筑紫の方だったことにして合理化できたということです。

西高:記紀では饒速日神は高天原から、天磐舟に乗って、天降ったことになっていますが、天照大神はどこから何に乗ってやってきたのですか?

「海原」は壱岐・対馬を中心にする海域

やすい:記紀では天照大神は高天原に上げられていたことになっています。それは七世紀の改変によるとしたら、元々は拠点は伊邪那岐・伊邪那美が水運の拠点としていた海原からということです。海原といえば太平洋こそ大海原ですが、朝鮮半島南端部に高海原があったのですから、そこから対馬海峡の水域を海原と呼んで拠点にしていたのです。それは主に対馬・壱岐でした。後に須佐之男命たちが宗像三女神の沖ノ島航路も開きますが。天照大神が拠点にしたのは対馬です。対馬には阿麻氐留神社あり、その名残と思われます。

対馬の阿麻氐留神社


西高: 残念ながらウィキペディアによりますと「『特撰神名牒』は、山城の天照御魂神社、丹波の天照玉命神社等と同じく、当社も天照國照彦火明命なるべし、と考定してゐる」。とあるので、この神社も天照大神ではなくて、饒速日神を祀っていたようです。

やすい:その根拠が明示されていませんね。アマテル系の古い神社のほとんどが祭神を饒速日=火明神(ほあかりのかみ)とされてしまったのです。それは朝廷が天照大神祭祀を独占して地方のアマテル信仰は饒速日神の祭祀ということにしたのです。というのは、元々天照大神は大和政権には祟り神なので、地方のアマテル神社の祭祀になっている物部氏が祭祀すると、謀反をそそのかしかねないと警戒したのです。

西高:ほおーそういう理由づけもできますか。

やすい:天照大神は海路対馬から来航したのです。その船が磐舟です。と言っても石でできた石の舟という意味ではなく、木の船の船底に重石として石を敷き詰めたのです。そうしないと荒海では転覆しやすいからです。

西高:日本海はよく荒れますからね。でも重心を低くしますと、浸水したときに沈没しやすくなりますよ。

やすい:ですから倭人の船は気密性が高いハイテク船だったのです。この磐舟の造船技術をもっていたので、日本海の制海権を握り、大八洲への植民が制限できたので、大八洲の覇権を握ることができたのです。  

       5、天照大神の神政政治

西高:では天照大神が河内湖から入って草香に宮を建てて天照王国を建国したとして、どのような政治を行っていたか分かりますか?

画像は天照大神と草香

やすい:天照大神は太陽神ですから、太陽自体が御神体です。太陽を祀るわけです。日の出、日の入りとかに祈りを捧げたりします。ただし太陽が宮を建てたり、祈りを捧げたりできませんから、太陽神天照大神は、実体としては太陽であるとともにその化身としては現人神です。つまり人間が自己と太陽を同一視して太陽に関係する儀礼をして太陽の力の偉大さを実感させることで、民衆の帰依を得ることができれば、現人神天照大神として通用するわけです。

西高:それは宗教として現人神信仰ですね。それだけでは建国したことにはならないでしょう。

やすい:倭人は海人族つまり海洋民ですが、中国の沿海地方にいたようで農耕や土木、造船、水産などの技術も持っていたのです。それで暦のようなものをつくり、宮から見てどの位置から日が昇ると田植えをするとか、草刈りをするとか指導したのでしょう。その指示に従っていると秋の実りが確保できるとかで、お礼に収穫時に、何割か宮に収めるようになり、その農耕共同体が地縁的に拡張すれば国家になっていきます。

西高:草香に上陸して、周辺を軍事的に制圧して建国宣言したのではないのですか?

やすい:須佐之男命の出雲建国は、八岐大蛇に象徴される越の勢力を追い出して、地元民との血縁関係をいっぱい作って建国したわけです。軍事的制圧と倭人と地元民の融合が建国の基礎でした。

西高:どうして天照大神の場合は、平和的だったといえるのですか?
やすい:伊邪那岐・伊邪那美の夫婦神の段階で、地元民との間で交流があり、農耕や土木、冶金などの文明を伝えていたので、天照大神の建国は地元民の期待に応えるものだったのです。それで地元民と倭人のずれはそれほどではなかったのでしょう。   

        6、天照大神の死と再生

西高:それじゃあ、天照大神が草香宮にいたのなら、天岩戸事件はどのように解釈するのですか?

やすい:あくまで伝承ですから、それがどんな歴史的事件を反映したものかは憶測するしかありません。その限界を弁えた上でなのですが、天照大神は河内にいたので、須佐之男命と接点はありません。須佐之男命は海原(対馬・壱岐)から「神逐ひ」されて、高天原で天照大神と宇気比をしたといいますが、実は宇気比の場所は筑紫北岸で相手は月讀命だったのです。筑紫に居座って、そこで狼藉が過ぎてまた「神逐ひ」され、それから阿波の国で大宜都比売から鼻・口・尻から食物を出してもてなそうとされたので、穢いと怒って殺すと、大宜都比売の体からいろんな作物が出てきたという話がありますね。
 その後で出雲に行って建国したのです。つまり河内には行っていない、でも須佐之男命は自然神としては嵐ですから、河内湖に野分(台風)が襲うと、大氾濫になることがあったのです。
 というのは河内湖は尼崎のところに狭い出口があっただけで、淀川と大和川が何本にも分かれて注ぎ込み上流に大雨が降ると氾濫しやすい地形だったのです。ですから大型台風で草香宮が流されて天照大神が水難死したら、須佐之男命が暴れたので、天照大神が天岩戸に隠れたという説話になってもおかしくありません。
 つまり水難死した天照大神を生駒山の洞窟に安置して殯をしたということです。

生駒山系七面山洞窟

西高:しかし、天照大神は天宇受賣命がストリップなどをしてみんな大笑いしているので外を覗いたら手力男に引っ張り出されたという話がありますね。ですから殯ではなかったのでは。

やすい:天照大神は太陽神でしょう。太陽神には日食にまつわり、死と再生の神話がつきものなのです。それに冬至の時に力が弱まり。そこから強くなるということで、死と再生の説話があります。
 だから初代の天照大神は亡くなったのですが、現人神は人間なので再生しません。だから出てきたのは、初代にそっくりの二代目だったのですが、初代が生き返ったか、死んでなかったと錯覚した人もいたのです。そう受け止めてもらった方が、二代目としても初代の権威を引き継げるので敢えて否定しなかったのかもしれません。

西高:ええ!天照大神に初代とか二代目とかあるのですか?そりゃあ初耳だなあ。

やすい:記紀神話では、自然神と現人神の区別とか明確に規定しているわけではありません。しかし歴史に登場し、物語を紡ぐのは現人神ですから、人間である以上、年をとったり、病気や事故で死にます。そして息子がその現人神を継承することも大いにあったわけです。

西高:そういえば、高御産巣日神は最も古い造化三神の一柱ですが、出雲帝国の打倒や神武東征でも活躍しますね。これまで神だから何百年生きても可怪しくないと思っていましたが、現人神だったとしたら、別人だったということですね。

やすい:饒速日神は天照大神の孫ということですが、記紀では亡くなった記事は消去しています。『先代舊事本紀』にはあるのですよ、そしてその一世紀後に饒速日神は磐余彦大王(神武天皇)に臣従しています。当然後の饒速日神は饒速日四世ぐらいでしょう。

西高:記紀では神武以前を神代としたために、天照大神も現人神だという解釈が封じられているわけですね。でも実際には人間の歴史があったのだから、人間の歴史を織りなす神々は現人神つまり人間であったということですね。
やすい:ええ、どうしても神と人間を対極に置いてしまうので、現人神というのは特別視されてしまい、造化三神や三貴神まで現人神がいたという発想ができなかったのです。

西高:そういえば偽満州国皇帝に関する報道で、現人神と表現したところ天皇以外は皇帝でも現人神ではないとして不敬罪ではないかという議論が起こったそうですね。

折口信夫

やすい:その際に、折口信夫が『日本書紀』では住吉明神に現人神という表現があると指摘したそうです。その話を紹介した上田正昭さんは葛城山の一言主神も現人神だと紹介しています。これらは四世紀・五世紀に現れた神です。ということは折口信夫や上田正昭も大国主命や饒速日神あるいは造化三神や三貴神などの現人神については全く考え及ばなかったかもしれませんね。

西高:要するに創作上のキャラなので、現人神がどうか論じる必要がないということでしょう。

やすい:しかし大和政権の話はどんなに同時代史料がなくても歴史で、饒速日王国や出雲帝国の話は、どんなに関連する神社や史跡があっても創作でしかないというのは説得力がありません。少なくとも歴史的に存在していたとしたら、その神は現人神であったということは認めるべきでしょう。

西高:ところで天照大神二世がいたとして、彼はまた草香津に宮を再建したのですか?

やすい:港としての草香津の再建はしたでしょうが、宮を再建してもいつまた巨大台風にやられるかもしれないので、宮は内陸部に移転したでしょう。その時までに大和の明日香まで勢力を伸ばしていたら三輪山に宮を遷したと想像できます。

西高:なるほど饒速日神は三輪山から昇る朝日だということですから、天照大神二世の子供だとしたらそれで説明が付きますね。もっとも記紀では饒速日神は天磐舟に河内の哮峯に天降ったことになっていますが。

    7、三貴神と天孫降臨、どちらが古い説話か?

やすい:三貴神説話と天孫降臨説話はどちらが先にできた説話かが問題なのです。三貴神説話は建国神である三貴神が三倭国を作って、それが興亡があって統合していくという説話であったと考えられます。それに対して天孫降臨では、天照大神の孫が高天原から天降って、饒速日神が河内・大和倭国を、邇邇藝命が筑紫倭国を作ったということで、建国神を須佐之男命以外は孫にずらしているわけです。そしてその結果月讀命の建国神としての話は宙に浮いてしまっています。だから三貴神の話が先で、天孫降臨の話は後からの改変だと解釈できます。

西高:それに三貴神の話だと天降りとは書いていないわけで、高天原という天空に神々の国があったということは前提されていないわけですね。

伽耶にある高天原故地の石碑

やすい:高天原という形で天空の国になったのは五世紀以降なのです。古い説話では高天原ではなくて高海原だった。上古の倭人は「海」と「天」を同一視していたので、海原の彼方で朝鮮半島の南端だったのですが、五世紀のはじめに内紛などから現人神の多くが死に絶え、河内王朝の属国になってしまったので、神々の国、倭国諸国の宗主国がこんな国ではないということで、初めから天空にあったことにして「高天原」になったので、「天降り」になったということです。

西高:キリスト教徒だと天国と言いますし、中国でも天帝は天上界に君臨しています。天帝と天之御中主神が同じなら、高天原が天空にあったというのは、倭人社会でもおかしくないでしょう。

やすい:宗教上の観念として「高天原」が存在するとしたら、その通りですが、実際には高天原は歴史的事件に介入しているわけですから、実在しているとすると天空ではないわけです。だから天空に宗教的に神々の国を想定して、歴史的事件などを説明するのと、地上に倭人諸国の宗主権として存在したと説明するのと、どちらの方が歴史として説明できるのかということです。

西高:天孫降臨仮説というのは、高天原というファンタジーに基づくので、饒速日神や邇邇藝命は実在したのか、実在したとしたら何処から来たのか現実の場所に戻して考える必要がありますね。

やすい:三貴神は建国神ということなので、その孫は建国神が建国した国を継承したと考える方が、自然です。記紀では、三貴神を建国神という意味の「御宇の珍子」と呼びながら、実際の建国神は孫の饒速日神と邇邇藝命が建国神になっているわけです。そういう矛盾を考えますと、七世紀になってから神話が改変され、三貴神の海下り建国が孫の世代にずらされて、天孫降臨説話が生まれたという解釈が最も説得力があるのではないかと思います。

   8、饒速日神の死と第一次「日本国」の滅亡

西高:やすい仮説によると天照大神は先ず草香津に宮を建てて建国し、天照大神二世は宮を三輪山に遷した。そして饒速日神がその王朝を継承した。先程少しでましたが、神武東征で倒された饒速日王国の饒速日神は神武天皇つまり磐余彦大王に臣従したわけですが、それは一世紀以上経っているので、饒速日一世ではなかったということですね。それでは饒速日王国は一世からずっとつづいていたのですか?

大神(おほみわ)神社(三輪山が御神体)

やすい:それは有り得ません。だって大国主命は大出雲帝国を形成しますが、三輪山に宮を築き、三輪山の神である大物主神と一体化しています。だから第一次「日本国」である饒速日王国はいったん滅ぼされているのです。

西高:記紀には出雲帝国形成過程で畿内に侵攻した話や、饒速日王国を倒した話は出てきませんね。

味間見命(=宇摩志麻遅命)

やすい:『先代舊事本紀』では、饒速日大王は、息子の味間見命(=宇摩志麻遅命、画像)が生まれる前に亡くなっていて、高天原では親族が泣き悲しんでいると書かれています。しかし死亡の原因は何も書いていないのです。しかし後には出雲帝国の中心になるのですから、出雲帝国軍の侵攻があったと思われますが、大国主命については悪く書かないという慣例があったのです。

西高:崇神天皇の時代に人口の過半が死ぬような大きな祟があって、その祟り神が倭大國魂命で、つまり三輪山の神大物主神の荒魂だったわけですね。大物主神は大国主命と一体化していたことになっています。

やすい:出雲帝国によって饒速日王国はいったん滅亡したのですが、高天原は大八洲が一つに統合されることは阻止したかったのです。それで筑紫倭国が陥落しないように、出雲帝国に遣使しました。そして出雲帝国を解体して、出雲に撤収することを要求したのですが、出雲帝国は筑紫倭国への侵攻はあきらめたものの、平和で豊かな国造りに方向転換して、人気を集めていました。 
  そうなると今度は高天原・海原・筑紫が経済的に従属し、融合されることになるので、この三国は密かに奇襲軍を訓練し、武御雷神(画像)の指揮下で奇襲作戦で一気に出雲帝国を潰してしまったのです。

武御雷神

西高:その結果奇襲軍は、その後に饒速日王国を再建させたのですか?

やすい:何しろ奇襲で出雲帝国が滅亡したので、残党が畿内の山間部などにたくさん残って反撃の機会を伺っていたのです。そこで饒速日王国を再建するにあたって、成長した宇摩志麻遅命は親の仇をとってくれた武御雷奇襲軍の庇護のもとで再建するのか、それとも出雲帝国軍の残党を糾合して、奇襲軍を撃退して再建するのか、ハムレットのように悩んだかもしれません。

西高:大国主命は平和で豊かな国造りに転換していたので、奇襲軍の評判は悪かったのでしょう。ですから宇摩志麻遅命としては出雲帝国の残党を糾合して、奇襲軍を撃退させるしかなかったのでしょう。

やすい:そうです。ですから三輪山の神大物主命と大国主命は一体だという信仰が守られて、饒速日王国は大和倭国と出雲残党の融合という形でその後一世紀続いたのです。これは饒速日大王を中心にする太陽神の国という意味では第二次「日本国」といえます。

西高:それじゃあ、撃退された高天原・海原・筑紫の連合としては、恩を仇で返されたので饒速日王国に対して恨みが残りますね。

やすい:ええ、磐余彦(神武)東征の本当の大義名分はそれです。記紀では天照大神の正嫡だから大八洲を統合する権利があると言いますが、それは七世紀以降の神道改革後の改変に基づいています。磐余彦は月讀命の血統ですし、大八洲の統合自体は高海原(高天原)が最も警戒していたことなのですから。この問題は次回にテーマにして検討します。

西高:第一次「日本国」の建国は天照大神自身が河内湖畔の草香津に宮を建てて、神政国家を起ち上げたというお話でしたね。これまでの建国は神武東征に置いて居たけれど、実はそれは太陽神の支配する国という意味の「日本国」の建国ではなかったから大和政権の成立ではあっても「日本国」の始まりではなかったということですね。


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