本当に、薬師如来坐像は釈迦三尊像より新しいか?


法隆寺薬師如来坐像と光背銘https://www.youtube.com/watch?v=Jb1taFJtbIwより

 この法隆寺金堂の薬師如来坐像と光背銘が、天皇号の始用が607年まで遡れる明白な物証になっていました。私の学生時代1960年代までは定説だったわけです。ところが光背銘は後世の偽作であり、薬師如来坐像もそのふくよかなやさしげな顔相により、飛鳥仏ではなく、白鳳仏ではないかという疑いがかけられています。



https://nomurakakejiku.jp/column/post-16612.htmlの動画より

 薬師如来坐像の光背銘以外にも、推古朝や天智称制期の天皇号の碑文がありますが、それらもすべて後世の偽作ということで、結局天皇号は、唐の高宗が神格化され祭り上げられて晩年天皇の称号で呼ばれたのを模倣した天武・持統朝以降だというのが有力になっています。

 しかしもし光背銘に書かれていることが後世の偽作としたら、法隆寺が天皇家と特別に関係が深かったように偽るために書いたことになり、用明天皇が推古天皇と厩戸王に薬師如来像を作ってくれるように依頼したことも嘘になります。

 それでそのきっかけになった疱瘡(天然痘)の大流行に罹って、用明天皇が亡くなったことも怪しいという説まで流布されています。疱瘡の流行も作り話という極論まで飛び出しています。そして行き着く処は用明天皇・推古天皇・厩戸王などの実在を疑ったり、蘇我馬子が大王だったという蘇我王朝になりかねません。

 もちろんそれが歴史的事実だったら、認めるのはやぶさかではないのですが、この稿で蘇我王朝説に関説するゆとりはありません。論点を絞って、薬師如来像が釈迦三尊像より新しいという解釈に反論することに留めます。

法隆寺金堂釈迦三尊像

 とはいえ、釈迦三尊像は御承知のように「面相は面長で、杏仁形(きょうにんけい=アーモンド形)の眼、軽く笑みを浮かべるように見える唇(アルカイック・スマイル=古拙の微笑と称される)、長い耳朶に孔を開けない点、三道(頸部のくびれ線)を表さない円筒状の頸部」(ウィキ)です。慈悲に溢れたふっくらと優しい普通の仏像と比較して、不気味な印象を受けました。霊力が強いことを表現しているのでしょうか。

夢殿救世観音像

 確かに法隆寺にはそういう不気味な仏像が多いのですが、厩戸王の冥福を祈るために作られたもので、厩戸王の形代になっているそうです。ですから奈良時代に成ってから造られた夢殿に安置された救世観音像も厩戸王の形代なので、鼻の形や口の形、不気味さなどで似たような印象を与えます。それで7世紀の飛鳥仏の救世観音を8世紀に夢殿に安置したのか、7世紀の様式で8世紀に作ったという解釈があります。ともかく薬師如来坐像とは雰囲気が全く違いますね。

代表的な白鳳仏
https://nomurakakejiku.jp/column/post-16612.htmlの動画より

 それで薬師如来坐像は飛鳥仏ではなくて、白鳳仏だと解釈し、それで607年作ではあり得ないというのです。しかし頬がふっくらとしているから白鳳仏というのは、釈迦三尊像と違った様式だということで、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来は慈悲に溢れた形にするので、自然とそうなります。北魏や北斉の仏像の5世紀、6世紀の仏像もそうです。

6世紀北斉の仏像

 607年の薬師如来像を623年の釈迦三尊像よりも、多彩な白鳳時代の仏像に似ているから白鳳仏だと決めつけるのはどうでしょう。私は、洗練された白鳳仏よりも、洗練されていないもっと古い中国の5世紀や6世紀の仏像に似ているのではないかという印象を受けます。とにかく釈迦三尊像や夢殿救世観音像というのはインパクトが強いですね。それと比較するのに日本には6世紀の仏像はほとんどないので、つい白鳳仏と比較して、白鳳仏としがちですが、仏教は国際的な宗教で、仏教美術も国際的ですから、国際的に比較して年代も吟味すべきでしょう。

 それから薬師如来像が607年にあったというのは信じられないという人もいます。それに薬瓶を持っていないから薬師如来ではないという人もいますが、まだ薬師如来像と釈迦如来像をそれぞれ別の様式で造形する慣習が出来ていなかったので、見た目に区別がないということです。

 薬師経が漢訳されていなかったと勘違いされている人もいますが、それは三蔵法師訳はまだできていなかっただけで、4世紀には薬師経は漢訳されていました。ともかく仏教伝来と共に二度まで疱瘡(天然痘)が大流行したので、当然薬師経を読み、薬師如来をつくろうということになった筈です。

 敏達天皇も用明天皇も疱瘡で崩御され、蘇我馬子も物部守屋も感染して苦しんだとされています。光背銘偽作説の人は疱瘡の大流行もフェイクだというのです。物部氏は疱瘡流行の原因は仏教の導入だから、疱瘡を鎮めるために廃仏を叫び、蘇我氏は仏教に帰依しないと疱瘡は廃仏の祟りだから流行は収まらないと叫んで戦争したわけです。それがフェイクだとしたら、じゃあ蘇我氏と物部氏はどうして戦争したのでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?