非社交的人間

 この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2022の12日目の記事です。https://adventar.org/calendars/7553 一応URLも貼っときます。

前置き

 私は社交的な人間ではない。ある目的のために「人に話しかける」という未知の挑戦を寮に入ってからはじめてやるようになったが、入寮して2年半経った今になっても違和感が拭えない。だがお陰様で、得るものがあった。此度はその成果物を共有し、これを見に来た物好きな皆様の糧としてもらいたい。

なんだろう

 私は社交的な人間ではない。思春期を経て誰にも話しかけられない引っ込み思案になり、幸い周囲に恵まれてぼっちにはならなかったが、グループワークで自分がいるだけで班員から難色を示される、それほどの壊滅的な社交性であり、高校、大学と年を重ねてもそれが改善されることはなかった。そんな私が大学2年の終わり、そのような根暗で自己肯定感のない自分を変えようと決意した。熊野入寮も自己改革に際しまず親のいない環境に身を置きたい、という理由であった。以下の内容はその結果である。

結果①

 私は社交的な人間ではない。故に寮やサークル、バイト先など様々な人に迷惑をかけた。たくさんの人を困らせた。たくさんの人を傷つけた。コミュ障が分不相応にしょうもない努力をするから。おとなしく引っ込んでいればいいものを。私はそれらの罪に対し弁解する術を持たない。世の中には様々な人がいる。性格、性別、家族構成、etc...その人を構成する要素は十人十色であり、コミュニーケーションとは臨機応変さが求められる難解な事柄であるということを思い知る結果となった。人付き合いにおいて相手に対する興味は原動力として不可欠であるのだが、それが高すぎると逆にキモくなってしまう。そこのさじ加減の上手さこそが「コミュ力」と呼ばれるべきものなのかもしれない。

結果②

 私は社交的な人間ではない。そんな私が積極的にコミュニケーションを取ろうとして、上手くいくはずがない。思うに、どんなに社交的な人間であっても他人を傷つける可能性を0にすることは不可能であるのではないか。他者の感情という流動性のありかつ時に非論理的な結論を導くものに対して0%を与えることは感情を完全なる制御下に置かない限り不可能であり、そんなことできない。だから心優しい者や聡明な者の中から「そもそも人付き合いをしなければそのようなリスクは発生しないのでは?」という意見が出てくるのはわかる話であり、正論だな、と私も思う。だが果たして、「人付き合いを排除した生活」が一般的であるべきか、そもそも人間存在がそれ単体として成立しているか、その人間を構築した歴史的文化的背景、今その人間の周囲にある社会的要素をも人間存在に含めるか。少し難解であるためその是非は問わないが、私は個人的な感情として、人付き合いは大事にしたい。だから「0に近づけようという志向性をもって人と接することにしよう」という結論に至った。

結果③

 私は社交的な人間ではない。それでありかつ軸となるような精神がなく、そもそも自己に対する価値を全く感じていなかった。しかし自分を大事にできない人に他人は愛せないとはよく言ったもので、他者に対する思いやりを向けるにあたってはまず自分が自分軸の生き方をできている、これがどうやら前提にあるらしい。まず自分が成り立っている。そして自分の成立を助けてくれている他者がいればその存在に対する感謝を忘れない。これまでを完了して、その上で、「一人でもいいけど、この人といればもっと楽しそうだな」と思えるような人を増やす。これが、「交友関係を広げる」ということなのかもしれない。

結果④

 私は社交的な人間ではない。だからついつい内向的になってしまう。しかし私は同時に知的好奇心の非常に高い人間であるので、常に私の興味は外へ外へという方向性であった。自己改革計画実行にあたり、「後者の外界への興味関心を育てる」という新たな試みを行った結果、一定の成果が得られた。
 この寮に、この大学にいると、「当たり前のように大学に行って就職、ないし研究者としての道を進む」という人が大多数であり、それが当たり前のように感じられてしまう。しかし周知の通り世界には多様な生き方が存在する。だが赤の他人が全く違う生き方をしていたとしてもあまり自分ごとのように感じられないのという人が多いと思う。多様な生き方を歩む人と実際に“知り合う“ことによってその生き方を実際に肌で学ぶ。それによって自分の視野が広がり、その広がった視野によって自分の主軸である人生に彩りをもたらすことができるだろう。
 まあつまり要約すると、常に(無理をしない程度に)外界に対する志向性を持ち続ける。これによって人生も交友関係も豊かになるのではないか、という仮説が得られた。これが成果である。

結果⑤

 私は社交的な人間ではない。そしてさらに人生に対して前向きに捉えていなかった。大学を卒業した先の人生、そんなものを思い描く発想もなければ希望もなかった。だがどうやら、自分の「人が好き」という善の要素を信じ続けた結果、人生は捨てたものではないのでは、という発想が頭に浮かぶまでに改善された。
 私はたくさんの人に迷惑をかけた、傷つけたと先述した。たしかにそれは罪であると認識しているのだが、一方で「気にしていない」とする人々も多く私の周囲にありがたいことに残ってくれた。少数できてしまった敵にばかり気を取られて、多数できた味方としてくれる人に目を向けていなかったのだ。私はたしかに愚かで愚行を繰り返す存在であるが、そんな私を気に入っていただいている人もまた一定数いるらしい。そのような存在がいるこの世の中は実はいいところなのではないだろうか。地獄のような環境をうまくかわしながら、自分らしく生きつつそんな自分に“善く“してくれる物好きと仲良くしながら生を全うする、それが人生なのかもしれない。

まとめ(?)

 私は社交的な人間ではない。だがそれを理由に人と接することを避けるのではなく人と関わろうという気持ちを持ち続けた。その結果が上記のものである。愛情を拒絶しながら育ち人間不信に陥った人間でも、これほどの思いやりを全身に受けることができた。また過ちを犯す可能性は大いにあるが、少なくとも周囲の人々に対する感謝は、これからの僕の人生の根幹にあり続けるだろうし、過ちを反省し修正する、その行動動機、活力の源となるだろう。
 私は社交的な人間ではない。だが、ぼくは、善き人間でありたい。

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