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完全とは”空洞です”

ゆらゆら帝国は2010年3月31日をもって解散した。同バンドのボーカル坂本慎太郎は『アルバム「空洞です」とその後のライブツアーで、我々は、はっきりとバンドが過去最高に充実した状態、完成度にあると感じました。』『完成とはまた、終わりをも意味していたようです。』と解散理由を語った。


PERFECT DAYSとは

まだ朝日が完全にのぼらずうっすらと明るい時間帯平山は落ち葉を掃く箒の音と共に目覚める。
名前も分からないたくさんの植物に水をやり、歯を磨き、髭を整え、身支度を済ませた彼は仕事へ向かう。ダイハツの「ハイゼットカーゴ」に乗り込み自販機で買ったカフェオレを飲みながら彼が向かうのは都内各地の「公衆トイレ」である。彼の仕事は公衆トイレの清掃。移動中の車内では70年代ミュージックが流れる。平山はいまだに音楽をカセットテープで聴くアナログな男である。彼は非常に真面目に仕事に取り組む。人が気にもしないような隅々まで便器を磨き、私語をほとんどしない。清掃員という仕事で蔑まれるような態度をとられることもあるが彼は決して怒らず、悲観せずただ黙々と目の前の仕事をこなす。昼食は決まってコンビニのパック牛乳とサンドイッチ。木々に溢れた公園のベンチに腰かけ、昼食休憩がてら、木漏れ日をフィルムカメラに収める。仕事を終え帰宅すると私服に着替えて自転車で銭湯へ向かう。10分程湯に浸かり、ソファで涼む。湯上がりのまま向かうのは浅草地下街の居酒屋。顔を出すだけでいつものレモンサワーとつまみが出てくる。文庫本を読みながら眠くなったらそのまま眠りにつく。これをほぼ毎日繰り返す。
本作のキャッチコピー「こんなふうに生きていけたなら」と、上記のような平山の生活を見て強く感じる。仕事には誠実でありながら、その生活は資本主義経済の範囲内で繰り広げられる急激な消費社会から脱していて、その生活は豊かで、満足気に見えるからである。俗っぽい言い方をすれば「物質的な豊かさでなく心の豊かさが満たされている」ように見えるのである。そんな平山の日々をして「PERFECT DAYS」と呼ばせるのだ。

最後平山はなぜ泣き笑いしたのか

そんなPERFECTな平山の日々にも、”思いがけないイベント”がたびたび起こる。

・知的障がいをもった男性と接する、ちゃらんぽらんな後輩のタカシが見せた優しさ
・自分よりうんと若い女性から何故か頬にキスをされる
・昼食をとる公園の隣のベンチに座る女性が視線を送ってくる
・居酒屋のママが自分に対してだけ特別扱いをしてくる
・姪っ子が家出をして転がり込んでくる
・姪っ子を連れ戻しにきた妹との再会
・トイレに落ちていた○×ゲームの紙

しかし、これらの出来事は偶発的に起きて、特になにか大きな変化をストーリーにもたらすことはない。タカシは仕事を辞めたために知的障がい者の彼とは会えなくなってしまう。平山周りの女性たちもそれっきりほとんど登場しない。姪っ子が言った「おじさんとママは住む世界が違う」というセリフの深掘りもない。○×ゲームも結局ゲームが終わればそれっきり。

彼の日々を「PERFECT」と表現するが、「PERFECT=完全」とは「欠けるところや、足りないところのないこと」を意味する。彼の日々は欠けるところもなければ、足りないところもないのである。だからこそ、何かが起こりそうな予感があっても、何も起こらない。映画的な展開はそこにはない。現実の日々も往々にしてそんなものなのである。我々の日々は常に「完成」されてしまっているのである。
平山は都会の喧騒に飲まれ、資本主義的な社会構造に疲れ切った男なのである。あるいは彼と親族との間で何かトラブルが起きたのかもしれない。彼の妹は「お父さんがボケた。会ってあげてよ。昔と全然違うからさ」と言った。平山とその父との間で何かがあったことは示唆されているのだ。彼が一体どこで生まれ、どんな経験をして、今の生き方にたどり着いたのか想像すらできないが、彼が意図して「PERFECT DAYS」を送っていることは間違いない。彼はトイレのミラー部分に写る人々の陰や、公園のベンチから見上げた木漏れ日を美しいと感じ、微笑む。前述のような”思いがけないイベント”が起こったあと、その出来事を思い出しながらまた微笑む。ルーティン的な日々の中で起きた”映画的”な出来事に満足しているように見えるのである。繰り返しを尊んでいるかのように見えて、実は最も起伏を楽しんでいる。そしてそのありふれていながらも起伏のある日々を美しいと感じていることだろう。

しかし、彼のその美しい日々も即物的社会からのエスケープでしかない。我々がちょうどそう思うように平山もこの物質社会を窮屈に思い、逃げ出したのである。そしていまだその社会から逃げ出せていない我々から見て「PERFECT」な日々も、社会からの逃亡者たる平山にとってはこれ以上変化していく余地がない日々に思えてしまったのだろう。逃げ出した後悔と戻れない口惜しさからくる厭世的気分によって彼は涙を流したのだ。

一般的な家庭を築いておけばよかった。
家族と仲違いなんてしなければよかった。
人から蔑まれることない職に就けばよかった。

Yeah, it’s a new dawn, it’s a new day, it’s a new life for me,(夜が明け、新しい一日が始まり、私は私の新たな人生を生きるの)

Ouh And I’m feeling good(最高の気分だわ)

彼のカセットテープから流れるニーナ・シモン「Feeling Good」の一節である。
人は、「明日は何か変わるかもしれない」「今日から人生入れ替えよう」と日々思い続ける。しかし、そう簡単には人生は変わらない。映画のような劇的なストーリーはこの世に存在し得ないのである。平山は心のどこかで変化を望んでいたし、戻れるならば過去に戻りたいとさえ思っていたかもしれない。その傍ら、居酒屋のママの元旦那友山はガンの転移が見つかり、終活のようなことを始めている。平山は絶望したことだろう。自分と同世代の人間が人生を終えようとしていることに。まだ自分は人生を精算しきれていないのに。彼は現像したフィルムカメラの写真を月毎に保管していた。まるで自分がこれから先生きていくことに意味を見出すかのように。しかし彼はそれさえ辞めてしまったのである。平山は作業を放棄して、畳に寝っ転がった。

今は今、今度は今度

海に行こうと言った姪っ子に対して平山が言った「今は今、今度は今度」というセリフが印象的である。
平山は目の前の仕事については極めて誠実であり、寡欲的で、そこが魅力的な男である。しかし、そのストイックさがむしろ彼自身を不幸にしている。友山から「あいつ(居酒屋のママ)をよろしくお願いします」と言われても「そんなんじゃないですから」と濁す。○×ゲームのやり取りもゲームが終わっても続けていれば何か起きたかもしれない。公園のベンチの女性にも話しかけてしまえばいい。タカシにその場の勢いで貸した15000円はどうなったのか?「今は今、今度は今度」は即物性を否定した美しい言葉でもあるが、同時にこうした「今を大事にしない」平山のウィークポイントを象徴するフレーズでもある。

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