相良清兵衛の「分け八つ橋」

先日熊本県人吉市の相良清兵衛屋敷跡に行ってきました!
目的は相良清兵衛屋敷の八重紅梅、「分け八つ橋」を見ること。
説明板にもあるとおり、肥後人吉藩の家老を務めた相良清兵衛が陸奥国弘前藩に配流となり、当時の弘前藩主、津軽信義から贈られた八重紅梅「八つ橋」の分け木です。

※以下は個人的な考察です。

〇なぜ人吉から弘前へ流罪に?
相良清兵衛は安土桃山時代~江戸時代初期に活躍し、人吉藩相良家の存続に多大な貢献をした人物です。ですがあまりにも家中で権力を持ちすぎたことを始めとした様々な要因が積み重なり、当時の人吉藩主相良頼寛が清兵衛の専横を幕府へ訴え出ます。
そして詮議の結果、清兵衛は弘前藩へ流罪となりました。

清兵衛については、熊本県あさぎり町様のホームページに詳しく載っています。

あさぎり町公式ウェブサイト「清兵衛どんのはなし その1」

                        (参照 2024-3-20)
〇「八つ橋」という名前についての考察
津軽信義は相良清兵衛に「八つ橋」という名の八重紅梅を贈ります。
「八つ橋(八橋)」といえば『伊勢物語』にも登場する三河国(現、愛知県)の名所で、有名な「かきつばたの歌」もここで詠まれました。

『伊勢物語』についてはこちらをご参照ください。
境野正 校註『伊勢物語』,大倉広文堂,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1109206/1/14 (参照 2024-03-20)

「かきつばたの歌」は男が慣れ親しんだ妻を都に置いて遠方まで旅をしてきた侘しさを詠んだ歌ですが、肥後から遥々やってきた清兵衛の身の上を重ねたのかもしれません。また「八橋」は和歌によく用いられる歌枕でもありますが、和歌を愛したという信義らしい風流なネーミングでもあるかと思います。

津軽信義を始め、歴代藩主の所縁の品は
光信公の館 津軽藩発祥の地 国史跡「種里城跡」様のウェブサイトで見ることができます。

                        (参照 2024-3-20)
さらに何故梅の花なのか、ということについては、清兵衛が仕えていた肥後人吉藩主、相良家の家紋が下記の梅鉢紋(相良梅鉢)であるからだと考えられます。
津軽信義が「八つ橋」の八重紅梅をどのような経緯で選んだのかは不明ですが、信義の清兵衛に対する深い思いやりと親愛の情が感じ取れる贈り物であるように感じます。

家紋の画像についてはフリー素材サイト「発光大王堂」様のものを使用させていただきました。https://hakko-daiodo.com/kamon-c/cate1/ume/ume30.html(参照 2024-3-20)

〇今後の更新について
肥後と津軽という距離的な問題に加え、年齢も50歳以上離れていることから、清兵衛が流罪になるまで信義と清兵衛の接点はなかったように思われます。しかし、若かりし頃の清兵衛には、信義が生まれる以前、その親族たちとの意外な関わりがありました。そのことについても、これからnoteで少しずつ考察できればと思っております。

思ったよりも小ぶりで可憐な八重紅梅でした
まだ蕾が多かったですが、ちらほらと花が咲いていました。
説明版拡大。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?