資本主義の落日に、嗤う三女神(第2話)
「10億円か」
俺は、0の9個並んだ通帳を眺めていた。
これは最近開設した俺名義の口座の残高だ。どうやら本当にバルタザールの接収してきた資産の一部を継承できたらしい。
「人生上がったな」
一生働かなくて済む金額だ。
だが、上がったところで何になるのか?
別に以前から生活に困ってはいなかった。敢えて言えば、世界経済が混乱しかけている今でも通常の暮らしが維持できるようになったのは収穫だろうか。
「とはいってもな」
相変わらず単調な日々を過ごさなければならないことに変わりはない。
「つまらなそうですね」
バルタザールが不意に現れ、俺の顔を覗き込んでくる。こうして改めて見ると、奇妙な格好の女神だ。
容姿、スタイルともに完璧なのに、やたらと派手なドレスを引きずっているので台無しだ。
金色のドレスにはルビーがちりばめられている。
「バレたか。演技力にはそれなりに自信があったんだがな」
「それくらい分かりますよ。こちとら二千年は色んな人間に憑りついてきたんですからね」
そんなに長い間生きているのか。それでは観察眼も磨かれるわけだ。
「じゃあお前を前にしては、嘘や演技も無駄か」
「そうですね。というか、もっと自分に正直に生きてもいいと思いますがね。どうせ私のような鋭い者には見抜かれてしまいますから。何にも価値を見出せないなら、そういう性格だと割り切って堂々としていればいいんです」
「でも世間体があるからな……」
あからさまにニヒリストっぽく振舞っていたら、何かと不都合が生じる。
「世間体? 経済が崩壊しつつあるこの世界で、気にする必要ありますか? それに、10億あれば働かなくていいんですから、協調性なんて邪魔でしかありません」
それもそうだ。
ドルの価値が暴落して、今は世界経済が混乱の渦中にある。それに、10億円と予知能力があれば生活に困ることもない。
学校に行く必要すらないわけだ。もちろん、働く必要も。
「そうだな。なんだか、少しだけ自由になれた気がするよ」
俺は本心から答えた。
「ハハハ、それはよかった。でも、『少し』だけですか」
バルタザールは、笑いながらも不満そうだ。
「そうだな。人生が退屈なことに変わりはない……って、なんだこれは!」
突如として脳内に映像イメージが流れ込んでくる。
水没した街が見える。スカイツリーが見えるので、東京か。
「おぉ、なんだかやっと人間らしい反応見せましたね。これこそが未来予知の力です」
バルタザールは得意気に語る。全く以て的外れな態度だ。
「ハイパーインフレの次は東京水没か。っていうか、俺の意思で予知できるんじゃないのかよ?」
「未来が見えるタイミングはランダムです。しかも大局的な変えようのない未来しか見えません。ま、うまく利用してくださいな」
「意外と使い勝手悪いな」
だが、東京が水没すると分かっていれば打てる手はある。
「今のうちに暗号資産にでも投資しておくか」
そう呟いた瞬間、情報の濁流が脳に流れ込んでくるのが分かった。
「こ、今度はなんだ?」
なんだか急に、仮想通貨やブロックチェーンの詳細についての情報が次々と思い浮かぶ。
「私が過去に接収した故人の知識を脳にインストールさせていただきました」
そういうことか。
「お前、なんかの仮想通貨の開発者にでも憑りついていたのか?」
「はい。現在世界トップの取引量を誇る仮想通貨、アペイロン。その開発者に憑りついていたこともあります」
「ジム・クゥエルか」
誰もが知る有名人。仮想通貨の基礎となる技術を開発し、巨万の富を得たイギリス人だ。
「違いますね。アペイロンの開発者はリヒャルト・クラハースゾーンです。正確には。私が彼の全てを死に際に接収したので、彼の生きた痕跡は全て消え去ってしまったわけですが」
バルタザールはその人物の全財産や記憶だけでなく、生きた痕跡まで消すのか。さすがの俺もそれはちょっと嫌だな。
「すべて消えるのか。それはちょっとな」
「別にそのときには死んでるんだから関係ありませんって。それに、私との契約は途中解除できません」
そんな大事なことは早く言ってくれよと思ったが、確認しなかった俺も悪いか。
「まぁ死んだ後のことなんてどうでもいいじゃないですか。たとえ世界があなたを忘れても、あなたが生きている間の時間が愉快ならそれでいいのです」
バルタザールはニタニタしながら言う。
とんだ享楽主義者だな。俺もそんな能天気なセンスが欲しいものだ。
「お前は愉快ならそれでいいと言うが、俺は別に生きてても楽しくない。自殺したいがそんな勇気もないから生きているだけだ」
「アハハ、それはそれで結構じゃないですか。大抵の人間に生きる価値などありません。『人生の目的!』とか『社会に貢献!』とか大層な名分を掲げるおかしな人よりはずっと人間らしい生き方だと思いますがね」
それもそうだ。俺はかねてからそういった連中の心理が理解できなかった。
バルタザールという、そんな俺の心理に共感してくれる者が現れただけでも、僥倖と言えよう。
「それにしてもSNSは大騒ぎのようですね。『誰があれだけの紙幣をばらまいたんだ?』とか『どうせCGだろ』とか『実際にドルの価値が大暴落している』とか色々言われています」
「メルキオールの換金能力を手放しで信じる奴は少ないだろうな」
正直言って、俺もまだ信じてはいない。ガゼルの配信から一日経ったが、ニュースで取り上げられることもなく、SNSでちょっと騒がれているだけだ
だが、『記憶と財産の継承』というバルタザールの権能が本物だった以上、信じるしかないが。
「でしょうね。常識的な人間なら信じない。でも、あなたはそうでないでしょう?」
「人を社会不適合者みたいに言うな」
「事実でしょう。いくら嘘と演技で隠したところで、あなたが何にも価値を感じられない異常者であることは否定しようがないのです」
全てを見透かされている。そう感じた俺は、もう自分を取り繕うのは止めようかと思い始めた。
どうせ10億あるから働かなくていいし、ドルの大暴落で世界は大混乱中だ。学校もバックレていいだろう。両親はヨーロッパに出張中だし、会うのはバルタザールしかいない。
友人(俺は友人だと思っていないが)からのメッセージも全無視している。
もう素の自分のまま生きて問題はないということだ。
「では堂々と異常者として生きさせてもらうよ」
俺は少なくとも、世間体を保つための演技や嘘は止めることにした。
「その意気です。さて、対策を練りましょうか」
「なんの?」
「なんの、って。これから世界経済は大混乱に陥るんですよ? 資産を守るための対策に決まっているじゃないですか。あなたの継承した資産は、死後私が接収するんですからね。減らされては困ります」
「お前は他人の人生の乱高下が見られればいいんじゃないのか?」
バルタザールはなんだかよく分からない価値観の持ち主だな。まさか自分の言ってることの矛盾に気付いていなかったりしないよな?
「えぇそうですとも。ですが人間に憑りつくにはメリットを提示できなければなりません。得てしてそういった人間は予知能力だけでは釣れませんので。他にも資産を保有しておきたいのです」
現金な理由だな。だが、何にせよ、バルタザールの中で価値観の矛盾はないというわけだ。
狂人ではないことの確認が取れて良かった。
「じゃあまず手持ちの資産から確認しようか。俺は自宅を親から買い与えられているから、これも自由にできる資産とカウントしていいだろう。他には特にない。バルタザール。お前の接収してきた資産一覧表とかないのか?」
「今出力しましょう」
バルタザールが、テーブルの上にあった新聞紙に触れる。
すると、瞬く間に写真と文字が消え去り、奇妙なフォントの文字列が立ち現れた。
「お前、こんなものを接収してきたのか」
【・アトランティス大陸
・大聖堂ブラックカセドラル
・戦闘機オストリッチ
・各メーカーの拳銃100挺
・剣術スキル
・杖術スキル……】
その他にも細々とした資産が所狭しと列挙されている。
だが大陸ってなんだよ。
大陸を所有していて、死に際に接収された奴がいたってことなのか?
なんかヤバそうな気がするので触れないでおこう。
「あぁ、そのアトランティス大陸が気になりますか?」
「いや気にならない」
「気にならないはずがありません。嘘はつかずに生きていくのでは?」
「世間体を保つための嘘はつかないと決めただけだ。身を守るための嘘はつく」
「なるほどです。ではこの件は必要に迫られたときにお話ししましょう」
バルタザールは案外すんなりと引き下がった。まぁ、他の大聖堂とか戦闘機とかも、いわくつきといったかんじなので触れたくないのだが。
「ともかく、現物資産もそれなりにあるということだな。しかも、護身に使えそうなスキルまで接収していたのか。これは使えそうだな」
「ですよねですよね。杖術スキル、今すぐ脳内にインストールしますか?」
「あぁ頼む。まぁこんなスキルを使わずに済むよう、うまく立ち回るつもりだがな」
とはいえ経済が混乱すれば治安も悪化する。覚えておいて損はないだろう。
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