百科繚乱のエリチェレン(第5話)【移ろう時代】

 それから30年間。私とヘファイスティアは神秘を狩り続けた。結局のところ、まだヘファイスティアの寝首をかくことには成功していない。なかなかの難敵だ。そして私はやはりエリチェレンのようで、外見が老いることはなかった。

 久々の別行動の後、私はヘファイスティアと一ヶ月ぶりに再会していた。

「ユダヤ総督のピラトという男に話をつけてな。ナザレのイエスと会ってきた」

 ヘファイスティアは、いつになく真剣な眼差しでそう告げた。瞳の奥底には、わずかに恐怖が見て取れる。

「彼は、どんな男でした?」

 一番気になっていたことだ。秘匿協会が近年追い続けてきた救世主がその男なのか、ヘファイスティアの見立てを聞きたい。

「ただの新興宗教の教祖というわけではなさそうだ。纏う雰囲気が凡人のそれではなかった。だが身体能力に優れているとか、人心掌握に長けているとか、魔術の心得があるとか、そんな風ではなかった。何の力も持っていないようだった」

「ではなぜ、彼は救世主と言われるのでしょう? ユダヤの律法学者たちがこぞって危険視するほどの人物とは思えません。ましてや、東方の賢者が予言したユダヤの王であるとは、とても思えません」

「あぁそうだろうな。彼はユダヤの王にはならない。実際、もう処刑されてしまったしな」

「ではやはり、秘匿協会が追うべき相手ではなかったということですね」

「違う。彼はユダヤの王で収まる器ではない。世界の王となるべき器だ。直感的にそう感じた」

「死してなお、世界中の人々の心を掴むと?」

 俄には信じがたい話だ。生前、小さな教団を作ってユダヤ教に抵抗した程度の男が、世界を変えられるはずなどない。

「そうだ。このままでは、奴の名は世界中に、後世まで轟くだろう」

 ヘファイスティアは真剣な面持ちだ。冗談や誇張で言っているわけではなさそうだ。

「目下のところ、危険なのは奴の直接の弟子だ。全員始末したいところだが、各地に散らばってしまっている。だが一人、ローマでの布教を試みている者がいる」
「その者の名は?」
「シモンという名の元漁師だ。ナザレのイエスに影響されて、最近はペテロと名乗っているらしいがな」
「すぐに殺すべきでしょうか? ただ、教えに殉じたとなれば、却って神聖視される危険もあります」

 ペテロとやらの布教がどこまで成功するかも分からない。火種は放置しておきたくないが、人間の死にはいくらでも意味を付与することができる。下手に動けない。

「それでも殺すべきだ。余計な意味付けがされないよう、皇帝に働きかければよいだけのこと」
「そんな事が可能なのですか?」
「【大海】のモリアどのが、コネクションを作ってくださるだろう」

 秘匿協会は公権力にまで影響力を持つのか。

「ならん」

 未だ矍鑠としている老人、【大海】のモリアが現れ、制止した。

「まだ未確定の情報だが、ナザレのイエスは復活したそうだ」
「復活?」
「見間違いでは?」

 私たちは戸惑った。数々の神秘を見てきたが、死者蘇生は殆ど聞いたことのない秘蹟だ。ユグドラシルがカリアスの再生を提案してきたことがあったが、それくらいだ。ましてや、何の力も持っていないとヘファイスティアが見立てた男に、そんなことができるはずない。

「ともかく、ナザレのイエスの弟子には手を出さんように。復活の手がかりは残しておきたい」

 私たちは渋々と承知した。

 さらに30と余年後、ペテロは逆さ磔にされて死んだ。脅威がなくなったといえばそれまでだが、帝国の弾圧は少々やりすぎな気もする。これでは虐殺だ。

 秘匿協会は復活の奇蹟について研究する機関となってしまった。世界中から同様の事例をかき集め、さらにはイエスの遺体を手に入れるべく暗躍しているらしい。

「それこそ徒労に終わりそうだ」

 そう毒づくヘファイスティアと共に、私は旅を続けた。

 ローマ大火が起き、あらゆる建物が消失したと聞いたのは、そのすぐ後だった。こうして、師匠との思い出の場所は一つ、無くなってしまった。

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