劇場版ウマ娘の前にRTTTと劇場版の間の時期を見ていこう!(世紀末覇王の覇道)


前提知識

物語の舞台はジャングルポケット達の世代がクラシックを迎えた2001年

第一弾PVを見る限りその前年末くらいからレース描写はあるっぽいですが舞台的には2001年になりそうです。細かく見るなら2000年末~2001年11月末くらいまでな感じですかね

歴史の流れはRTTTの2年後

映画に直接つながるという点ではRTTTが挙げられます。詳しく言うならRTTTが競い合っていたのは1999年、ポッケたちの2年前になります。RTTTと同時期にスぺちゃんのシニア世代(ゲームメインシナリオスぺちゃん編及びアニメ一期)があります。

RTTT→劇場版を繋ぐシャカール世代

当然間の2000年にクラシックを走る世代もいる訳です。それがゲーム内でタキオンとの絡みも多いエアシャカールやアグネスデジタルです。タップダンスシチーも同世代ですが、この子は非常に遅咲きなので今回は触れません。(タップダンスシチーの活躍は2002年の下半期以降、今挙げた中で直接対決があったのは現役最晩年のトップロードのみでどちらかというとクリスエスを中心としたポッケ世代の1つ下のライバルな印象)

馬の年齢の数え方が今と違う

これ、昔の競走馬の事を調べると結構混乱する事だと思うんですよね。ウィキの記事もnetkeibaさんも結構当時の馬齢表記のままのパターンが多いんです。
2000年まで日本競馬は馬の年齢を数え年で表してきました。つまりは産まれた時に1歳で以降1年ごとに1歳年を取っていきます。
2001年に競馬の国際化の流れで世界的な表記である、生まれた時は0歳で以降年が明ける事に1歳年齢を重ねる方式になりました。
なので今○○2歳ステークスと呼ばれるレースが2000年当時は○○3歳ステークスだったりしたんですよね。

これらを踏まえて1999年末から2000年末まででウマ娘キャラが出てくる場面をピックアップしてざっくりと歴史を見ていきます。

1999年有馬記念 RTTT世代VS黄金世代

競馬の流れ的にクラシックレースが終わるという事は上の世代との対決になります。クラシックレースで活躍した子が上の世代のトップと戦ってどうなるのか、ジャパンカップや有馬記念の楽しみの一つですよね。

(ちなみに菊花賞は99年まで秋の天皇賞の次の週で2000年以降は秋の天皇賞の前の週になってます。日程が厳しいので菊花賞→JCと連勝した馬は2024年現在いません。菊花賞→有馬記念の連勝の馬はそれなりに居るんですが)

99年はクラシック勝ち馬のオペラオー、トップロードが有馬記念に参戦しました。なぜかオペラオーは12月の頭にステイヤーズSを使うという謎ローテですが……
アドマイヤベガは一足先に休養、体制の立て直しを図ったものの順調にいかず、夏に競走能力の致命傷となるケガを負い、結果的に菊花賞を最後に引退しています。まあ、主戦騎手が武豊さんなので状態が良くても鞍上が同じであるスペシャルウィークがJCや有馬を使ったかは微妙な所ですが。

迎え撃つ古馬勢(ウマ娘で言うシニア級のウマ娘)の筆頭格は先ほど挙げたこの年G1を3勝しているスペシャルウィーク、この年の宝塚記念勝ち馬で有馬記念連覇、グランプリ三連覇を狙うグラスワンダーの2頭になります。
ウマ娘で言うと他にもメジロブライトやツルマルツヨシも出走していました。

結果はレース動画をYouTubeで見てもらいたいのですが、スペシャルウィークとグラスワンダーの勝負に最後まで食らいついたテイエムオペラオーといった感じですね。自分の印象ですが、グラスぺの2頭はタイマンを演じていたような、別の軸でレースをしていた印象受けました。
そんな中オペラオーが3着、トップロードは6着でした。上の世代にはじき返された訳ですね。
スペシャルウィークはこのレースを最後に引退しました。

2000年 ~天皇賞(春) 同期の明と暗

この頃大阪杯が無いのでクラシックを戦っていた子達の最初の目標は春の天皇賞になります。
春の天皇賞と言えば『春の古馬最強決定戦』。21世紀の初頭くらいまでは牡馬の強い馬、特にクラシックで活躍した馬は春の最大目標を春天に定めていた印象です。
鉄板の構図が古馬になった4歳勢VS歴戦の5歳以上の形なのですが、前年勝ち馬のスペシャルウィークは引退、2,3着だったメジロブライトとセイウンスカイは現役ではあったものの、ケガで回避しています。
こういう事情もあり2000年の春の天皇賞は事実上4歳世代筆頭決定戦となりました。
そんな中1番人気のオペラオーと2番人気となったトップロード。普通なら菊を制したトップロードの人気が上に思うかもしれません。
実は2000年に入ってこの2頭は京都記念と阪神大賞典でぶつかっており、その両方をオペラオーが制していたのです。

そして結果も人気に応えてオペラオーが勝利、この年の古馬戦線の中心を担っていくことになります。トップロードは3着でした。

2000年 クラシック 夢と意地の7センチ

この年のクラシックをウマ娘と絡めるならばやはりダービーでしょう。絡めなくてもダービーなんですが。
二冠を掛けた皐月賞馬エアシャカールと祖母からの三代連続クラシック制覇の掛かっていたアグネスフライト、それぞれの鞍上が史上初のダービー三連覇を狙った天才・武豊と悲願のダービー制覇を狙う名手・河内洋。奇しくも武さんの父、武邦彦さんは河内さんの兄弟子であり、その河内さんは豊さんの兄弟子でした。

今やフジテレビの朝の顔である三宅アナの「河内の夢か! 豊の意地か!」
という名実況に乗せてのレースはわずか7センチ差でアグネスフライトが制しました。

これがウマ娘のエアシャカールにとってかなり重要な越えられない7センチの元ネタです。ちなみにもう一頭の主役であるアグネスフライトはタキオンの兄にあたります。

2000年 宝塚記念 怒涛の進撃、不死鳥の最期

春の天皇賞を制したオペラオーは次の目標を上半期の競馬の集大成であるグランプリ、宝塚記念に定めます。トップロードは休養に入りました。
対抗に目されていたのが昨年の勝ち馬であり、グランプリ4連勝を目指すグラスワンダーでした。
両者ともにG1複数賞の当時を代表する馬ではあったもののグラスワンダーは有馬記念以降順調とは言っていませんでした。
当初はこの年に外国産馬にも出走権利が解放された春天に出走する予定でしたが前哨戦である日経賞を6着で負け、宝塚を目標に変更。
その後の京王杯スプリングカップでも9着と大敗からの宝塚記念でした。
人気はオペラオーが1,9倍で1番人気、グラスが2,8倍で2番人気です。オペラオーの人気は分かりますが、グラスがこんなに順調に行ってなくてここまで人気を集めたのは馬の人気なのかライバル馬の不在なのかこの距離コースなら全然あると思ったのか……

結果はオペラオーの勝利、グラスは6着に敗れさらにレース中の骨折も発覚し引退となりました。
そして、このレースの2着となったのがオペラオーの同期でこの年の頭から重賞戦線で活躍し、2勝を挙げていたメイショウドトウです。
この結果でオペラオートップロードの間に入ってきた印象です。

2000年夏競馬 新時代、胎動

ウマ娘だとメイクデビューは一律ですが、競馬はそうではありません。中央競馬の場合最速はダービーの翌週、最後のメイクデビューは翌年2月くらいとなってます。一口に同い年の競走馬と言っても成長の度合いは千差万別ですからね。
映画の主役のジャングルポケットはこの時期のデビューでメイクデビュー、重賞と順調に進んでいきます。

2000年 天皇賞(秋) ジンクスを打ち破れ!

秋を迎えた古馬戦線、秋初戦の京都大賞典を勝利したオペラオーが人気を集め続く人気に宝塚二着のドトウと直前の京都大賞典でオペラオーの二着になっていたトップロードが続く人気になっていました。

この頃の天皇賞には一つのジンクスがありました。それは「1番人気は勝てない」というものです。
2000年当時の一番新しい一番人気の勝ち馬は1987年のニッポーテイオー(シングレのアキツテイオーの元ネタ)で84年のミスターシービー、さらに遡ると65年のシンザン(シービーの前の三冠馬)となります。
ニッポーテイオー以降一番人気が微妙だったのか?と言われればオグリ×3、マック、テイオー、ライス、ハヤヒデ、ブライアン、ローレル、スズカ、スカイとなんで勝てないのって感じのメンバーです。(ちなみに85年にルドルフも一番人気で負けています)
今もそうですが2000mという距離設定がマイル~長距離の実績馬が集まりやすい事情もあり、レベルの高いメンバーが集まるからこそそういう事も起こっていたのかなと思います。

しかしそんなジンクスも何のそのオペラオーはしっかり勝利し、当時のJRA記録にならぶ重賞6連勝、88年のタマモクロス以来の古馬王道G1の3連勝、88年タマモクロス、98年スペシャルウィーク以来の同一年天皇賞春秋連覇を達成しました。
ドトウは宝塚に続いて2着、トップロードは5着に終わりました。

2000年 ジャパンカップ 世紀末覇王VS新世代VS世界

いわゆる秋古馬三冠(秋天、JC、有馬記念)の連戦はかなり厳しいものです。
最高の栄誉であるG1を取るために完璧に近い仕上げを毎月行わなければならないのですから。
近年だと秋天→JCのみやJCを飛ばして香港や有馬みたいなローテーションも多いですし、JC一本ねらいもまあまああります。
JC創設の1981年以降の約20年で三冠で連勝を記録したのは85年のルドルフと99年のスぺだけでした。なぜ連勝できないのか、ネックはジャパンカップでした。

今でこそ海外馬はほぼ無条件で来ないと思われていますが、80年代は負けが多く、90年代でようやく5分5分と日本競馬の発展が分かる結果になってます。それだけ実績のある馬の選択肢としてJCはあったのです。
99年までで日本馬が勝ったのは7回(84年カツラギエース、85年シンボリルドルフ、92年トウカイテイオー、93年レガシーワールド、94年マーベラスクラウン、98年エルコンドルパサー、99年スペシャルウイーク)、海外馬にはじき返されてきたのです。

ちなみにですが秋天と同じくJCもルドルフ以降、1番人気馬が勝てないレールでもありました。まあ、こっちの場合は応援的な意味合いで日本馬が人気を集めるパターンだったり、海外の実績最上位馬が人気を集めるが別の海外馬が勝つパターンだったりで秋天とはやや事情が違うのですが……。

参考までに
別の日本馬が1番人気 エース、エル(それぞれ1番人気はシービー、スぺ)
海外馬が1番人気テイオー、レガシー、マベクラ、スぺ
自身が一番人気 ルドルフ

オペの頃は素直に日本の強い馬は勝負になるくらいにはなってました。

世紀末覇王と強力海外勢に挑むのはクラシックを戦い抜いた3歳世代。
菊花賞を勝ち二冠馬となったエアシャカールを筆頭に牡牝問わず世代トップがこの舞台に挑みます。

結果はオペラオーの勝利。これで重賞連勝を7に伸ばし、新記録の更新となりました。古馬王道G1の4連勝も史上初です。
ドトウは3連続の2着、新世代は下の方に沈む厳しい結果となりました。

2000年 ラジオたんぱ3歳ステークス(現・ホープフルステークス)

この辺は名称が結構変わっており、今はホープフルステークスとなってG1に昇格していますが、この頃は阪神2000mで行われており、格付けもG3でした。
ちなみにホープフルステークスという中山2000mでおこなわれるオープン特別競走もあったのですが、前身ではないそうです。ややこしいですね。
格付けこそG3ですが、クラシックへの登竜門の一つであったことは間違いありません。
予告の新聞で出てくるレースがおそらくこれです。
ちなみに予告ではタキオンが大本命となってますがこのレースでは2番人気でした。一番人気はペリースチームことクロフネでした。
(ペリースチームはペリーの乗ってきた蒸気船→クロフネって事でしょうか?)
主人公のジャンポケは上記2頭が重賞初挑戦で彼自身は札幌3歳Sを制していたのに3番人気に甘んじました。

結果に関しては恐らく映像化されると思うので触れません。

2000年 有馬記念 古馬王道完全制覇に向けて

本来ならこれも映像化されそうではありますが、物語の大筋とは関係ないと思うので触れていきます。

世界との対決を制したオペラオーは1年の締めくくりとして有馬記念に挑みます。史上初の古馬王道の混合G1完全制覇、グランドスラムがかかっています。
今だと春古馬三冠(大阪杯、春の天皇賞、宝塚記念)と秋古馬三冠(秋の天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念)を勝つ事ですが、この頃は大阪杯を除く5つのG1を勝つ事を指しました。
余談ですが、これが成立したのが81年のJCの創設のタイミングになります。80年までは天皇賞は勝ち抜け制、つまりは一回勝つと二度と出られないレースだったのです。
この頃グランドスラムに最も近づいていた馬は
タマモクロス(春天、宝塚、秋天。JCと有馬は2着)
スペシャルウイーク(春天、秋天、JC。宝塚と有馬は2着)
この2頭の3勝+5戦全連帯でした。奇しくもこの2頭は同じ年にG1を3勝しています。全連帯を除けば
シンボリルドルフ(春天、JC、有馬。宝塚は出ず、秋天2着)
が同じく1年で3勝、グランドスラムの意味合い的に同じ年に勝つ事は関係ないのですが、年を分けてみても3勝は
マヤノトップガン(勝った順に有馬、宝塚、春天。秋天は2着でJCは出走無し)
が増えるくらい。
JC創設以前だとシンザンとスピードシンボリ(ルドルフの母方の祖父)が天皇賞と春秋グランプリを取ったくらいでしょうか。

つまりはこの時すでにオペラオーは新記録を樹立していたのですが、ファン関係者の注目点は完全制覇その一点でした。

しかしレースまでがとても大変でした。
JCのレース中に接触からの負傷で調整期間をあまりとれず、状態はそれなりであった事にあわせて当日馬房内で額を打って内出血、腫れた状態でレースに挑むことになりました。

「勝ち続けるとすべての馬が敵になる」
これはこのレースをモチーフとしたJRAのCMのナレーションの一文です。当たり前ですが他の騎手は勝つためにまずオペラオーを何とかしないといけません。自然とマークは集中し、全員がオペラオーを意識するレースになりました。
この年のオペラオーは基本先行。前目につけて最後に少しだけ交わす戦術を取っていました。秋天以外はほとんど差を付けずに勝っています。
これはオペラオーが先頭に立つと油断するタイプだったからなのですが、充実期を迎えていたオペラオーにとっては最適な戦い方でした。
しかし、集中マークを付けられた事で最終直線までかなり後ろの方でレースをする事になります。

中山の直線は短い。そんな事は皆さんご承知でしょう。
そんなコースで後ろに居続けなければいけない事態はほぼ負けたも同然です。有馬の後方脚質の馬の勝ちパターンは3コーナーから進出を開始して最終直線入り口には先団に取り付いてるといったものですし。

最終直線、全員の意識がオペラオーからゴールへと向いた瞬間、わずかに空いた前の隙間に向かって突っ込むオペラオー、その末脚は同じ中山の舞台である初G1の皐月賞で見せたような素晴らしい物でした。


激戦の末、勝ったのはテイエムオペラオー。
ここに年間8戦8勝の年間無敗、古馬王道G1の完全制覇は達成されました。
その裏でドトウはまたも2着、4戦連続でオペラオーにやぶれたのでした。

そして舞台は劇場版の時代、2001年に移ります。
ここから先は映画に任せる事にしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?