路地に帰る。
昔大学生の頃世田谷に住んでいた。経堂という町。初めての東京生活をその町で4年強過ごした。当時僕は少しばかり精神的に混迷している時期にいて大学生活を送りながらその生活自体を一種の精神回復のサナトリウムのように活用していた。サナトリウム的な時間の中で僕はとにかくよく散歩した。商店街、住宅街、環七、環八、坂道、暗渠、公園、多摩川、緑道、昼も夜も関係なく思いついたまま歩き、目的地も決めずに歩いた。あの頃歩いていた道は目的地を持たない道、つまり路地と呼ぶにふさわしい道だった。
経堂から半径15キロメートルの道という道を歩いたように思う。ただひたすら歩くために歩いた。例えば寝る気にならない夜、ふと思い立って小田急沿いの道をゆっくり歩いて下北沢にたどり着く。0時を過ぎても開いているレコード屋でなんとなく名前は聞いたことのあるバッハの平均律を買う。ふらふらと別の道を通ってコンビニでアンマンを買って食べ歩きして公園で休憩したりしながら帰路について、家に帰ってきてコーヒーを飲みながら平均律を初めてじっくり聞く。そんな感じの無目的で無計画で無頓着な散歩の日々を送っていた。
大学はもともと希望していた大学というわけでもなく希望のレベルを落として(ほとんど休養のために)入った大学だった。専攻は造園学。何となく面白そうだし庭のことだったら負荷なく学べるんじゃないかと思ったのがそこに入ったきっかけだった。結果として4年間本当にのんびり過ごすことができたと思う。興味深い人たちにたくさん出会えたし、樹木や公園、都市づくりまで幅広く学べた。そこで学べたことは今も僕が世界を観るときのフレームとして機能している。その大学で僕は高校生的なあり方から大学生としての自由なあり方への変化の時間を問題なく過ごすことができた。降りることで大学選びにおいて僕は自分に合った場所を選ぶことができたのだ。
ディスグレードした、降りた生活の中でこそ出会いたいものに出会えるというのをそのころよく感じていた。人生は3歩進んで2歩下がるという歌がある。これまでを振り返っても「2歩下がる」時に僕は本当に出会いたかったものにたくさん出会ってきたと思う。
あれから10年以上、大学を出てから脆い脆い自分なりに何とかして人生を3歩進めてきた。紆余曲折回り道いろいろあったけど自分にしてはまあまあ進められたなと思う。しかしまあ僕は脆い。とても脆い人間なので、そろそろ進みすぎるのはもういいかなと思い始めてきた。疲れてきた。世界は向上心に溢れすぎている。
また、あの頃歩いていた路地に戻りたいなと思う。そのためにこれからまた僕は「2歩下がる」生活の中に入り込もうと思う。あの路地のなかで人生を送ることができたら結局は一番いいのだ。人生自体が目的を持たない路地になるのが一番いいのだ。そういう人生をつくれたら出会いたいものに出会い続ける生活になると思う。
路地は出会いに満ちているから。
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