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「母と言う呪縛・娘と言う監獄」・齊藤彩氏著を読んでの感想。

滋賀県の教育虐待の背景から行われた、母親を刺殺する事件の判決が、一審で懲役15年であったが、二審で懲役10年と結審したのは「司法の判例」にとって今後、親殺しのハードルを下げ、更に子の逃げ出す手段の拡充から消極性を促す判例になるのではと言う印象だった。

が、本書を読み切ったあとは、誰にもどうにも出来ず。加害者である、娘は母から虐待を受けた被害者であり、その他の母子関係に介入出来たのでは?と感じられる。父親や、娘が助けを求めた教師や祖母もこの母親から緩慢でありながらも被害を受けており、抑うつ的であり介入する由は無かった。何より、教育虐待をした母親も世間体の被害者だったのでは無いだろうか?この事件の被告に言い渡された、懲役10年はそんな多元的な要素の絡み合った顛末を知ってからでは、中々酷な長さだと言う印象に変わった。

本書を読み進めていくうちに「法学部を目指しながら、私小説を持ち込む」これが被告にとっての、本文から読み取れる自由意志を尊重した最適解で無いか。から「そのまま就職し自立する」事が最適。そして更に「夜逃げし、自分の身分を隠し親からひたすら離れた場所で暮らす」。へと読んでいくうちに、被告がどうすれば幸せに近づけるかを考える内に、幸福とは程遠い生活になっていく。タイトルの「娘と言う牢獄」とは本当にその通りだと思う。

エッセンシャルワーカーは日々患者をケアしてくれている。特にコロナ渦には医療従事者に過労をしいた事だろう、社会の必要不可欠な存在である。被告は世間体に毒された母親の呪縛によって、人を一人殺し、医療従事者として、社会に貢献できた日数は僅か2か月のみである。それを彼女は人生の大半を払って社会に貢献できた日数と割りにあっているだろうか?被告の「患者さんが手術中に何も印象に残らない事が私たちの成功」と言う手術室看護師の意識は、被告の丁寧な字、完璧主義傾向とも見られる性格は、エッセンシャルワーカーが持ちゆるべき資質そのモノであり、「勉強」する以前から備わっていた一番の才能では無いだろうか。

刑期を終えた末に自分の人生を生きてどうか、社会で「誰かの役に立ち誰かと繋がる人生を生きて欲しい」と思う。

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