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「正欲」朝井リョウ著を読んで「無敵の人」の定義とはの話。

私は多分マイノリティ側では無い。反社会的な人間では今現在無い。が、無敵の人ではある。
世間では正しい側にいて、もしかしたら明日を生きている事を前提として日々生きてきた。が、別に明日生きていたいと思えるほどの何かがあるのだろうかと言われればそんな事は無い。
日々生きづらさを感じ、生き地獄の様に感じている。ただ、生かされているだけ、なんなら生を強要されているとも感じる。

自分の死と明日自分が死んだことによって、その処理に迷惑を被る人間に申し訳ないと言う理由で死なないだけかも知れない。「生存本能」だけで生きている。もはや単細胞生物と同じである。

それは繋がりが無いから。人と繋がれるフックを持ち合わせていないから。孤立しているのである。

でも多分、結構な割合でそんな人はいると思う。更に言うとそんな時もあって、そんな事無いときもある交互に繰り返されるんじゃないだろうか?

自分がマイノリティ側じゃなかった事を良かったと思った事は無いし。マジョリティで良かったとも思わない、マジョリティはマジョリティ側でも持たざる者であるのは変わりないから。

言葉で表すことのできる事象・意識なんて、一部である。今後も言葉で捉えられない、感覚的・意識的にしか捉えられない何かが、日々増えていくと思う。最近言葉で表現され流行りだしたものとして「共感性羞恥」とかもそうなのかなと思ったりする。そんな感覚は昔には存在しえなかったんじゃないかな。

そしてそれらはまた、自分が知らない誰かが知覚し、知らない範囲で塊となって世に流れる。

だから今までの正論って言うのは段々懐疑的になったり、古臭くなったりするんだろうな。

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