平家の落人がやってきた〈中篇〉
8/21
夜が明けた。
目覚めるとすぐ、もったいなくもお預かり申し上げた落人ブラザーズの様子が気になり、真っ先にベランダへのガラス戸を開ける。
様子を伺うと、朝の清々しい空気の中、レモンの木のグリーンの上で兄弟共に元気に葉を食べている姿が目に入った。
昨日拾い上げた際には小さいお方は動く素振りがなかったため心配だったが、杞憂であったらしい。小さな体で一心不乱に葉を食んでいる。
大きいお方は言わずもがな、ベランダから落ちたのもどこ吹く風、極めて健康で元気であるようで、葉を食べたり、うにょうにょと円形になったり、自らの糞を葉から飛ばして落としたりと、生命力に溢れている。
それにしても、昨日からまたこんなにも葉を食べたの?!想像を遥かに超えるスピードで数時間で大量にレモンの葉が消えている。
この調子で山椒の幼木に移られると木が死んでしまうので、慌てて山椒をガーデンテーブルの上に避難させる。
落人たちは柑橘の葉と山椒の葉が大好物だそうだ。
それに、急速に大きくなってないか…?大きい子は小さい子の2倍くらいの大きさだが、なんだかもう3cm近くの体長になっているようである。
思わず愛猫の子猫時代に想いを馳せる。猫も成長がものすごく早く、またたく間に大きくなっていったものだが、さすがに一晩寝たら1.5倍になっていました!という怪現象は断じて、ない。
黒のゲジゲジした容貌が際立ちますますグロい。でも落人だから仕方がない。
ご時世、このひょんなことから虫をお預かりした虫嫌い女に、SNSで様々な情報やアドバイスを与えてくださる方々がたくさんおられて心強い。虫かごに入れたら?とおっしゃる方もいたが、そこは仮にも平家の落人、プライドもあるだろうし自立もしていよう。なるべく自然に近い環境で見守ることに決めたのだった。
頑張って生き抜き、いつかは自らの手で平家の世を実現するのだよ。
8/22
朝。
目が覚めるやいなや、何はともあれまずベランダの落人兄弟の確認をすることが日課になりつつある。彼らの成長が楽しみでもある。今日はどうなっているだろうか、またたくさん葉を食べているだろうか?
小さい子、確認。
大きい子は…?あれ…?
大きい子が昨夜いた場所で、朝から食べ尽くしたと思しき葉は綺麗に葉脈だけ残してぺろりと平らげてあるが、肝心の姿が見えない。どういうこと…?どこに行った…?
震える心で辺りを探すが、プランターから目を離し、側溝に鳩のものと思しき小さな羽毛がひとひら落ちているのを発見して体が冷たくなる。
まさか…鳩、八幡宮の化身、つまり源氏に見つかったのか?!落人狩りの源氏に攫われた?!頼朝が執念深すぎて、源氏の落人狩りはどこまでも追ってくるものだと音には聞いているが…?!
嫌な予感を払拭するように、祈りを込めてくまなくレモンの木を調べ回ると、ものすごく遠くの隠れた葉の上に、また一回り大きくなった兄者がおとなしく鎮座しているのを発見。
よかった、さすが落人ー!
幼虫というのは想像以上に歩き回るものなのだな、ということをまたひとつ学習した。活動していないと非常に見つけづらいものである。
白かった部分が淡いグリーンがかってきているような気がする。変わらずグロテスクではあるが。
明日はどれだけ大きくなっているだろう。
8/23
数時間の外出から戻り、愛猫への挨拶もそこそこにブラザーズの様子を見にベランダに出、そこでレモンの葉の上で起きた全く予想だにしない事態に驚愕したのだった。
待って。これは、あの子ですか…?!
なんだこの黄緑色の巨大な物体は?!
あなた今朝まで、黒のゲジゲジした形だったじゃないですか。数時間でなんですか、急につるんとして巨大になって、節々ができていて。こんなの別物じゃないですか。引田天功もたまげて発作を起こすレベルじゃないですか。
巨大な「ザ・青虫」が兄者のいた葉に堂々と鎮座していたのであった。
過程を目にしなかったため、突然のあまりの変わり様に衝撃を受ける。どうやったらあの黒ゲジゲジがこれになるのだ。
なぜ?いつの間に?どうやって?
なかなか事態が飲み込めない。
自然界でこんなことが起こりうるのであれば、鶴も女に姿を変えて旗を織ることもあるのではないか。
自分は思っていたよりずっと都会で育ってきたらしい。女40代にして初めて、生き物の理の不可思議に打たれる。
こちらの衝撃などつゆ知らず、新・落人兄さんは大きくなった体の分だけ食いつきもダイナミックに成長し、一層しゃくしゃくと若葉をむさぼり食い、一層でかい糞を排出している。
この糞が土に帰り、木の養分となり、木が生い茂り、また虫がそれを食う。土の中には目に見えない微生物がいて、でも確実にその連鎖を助ける営みを行なっているのだろう。
目に見えるものと見えないもの、その確実な連鎖。
万物は生きている、そして繋がっている…!
一瞬、ミクロとマクロが脳内で完全に一致し、解脱して何かを悟りそうになってしまった。
「ジョシコ、青虫の糞から森羅万象の天啓を受ける!」
…いや、ややこしいのでやめていただきたい。。
落人兄者は食欲にまかせて新鮮な葉を食い散らかしたあと、木の幹に移動して休息なさっている。
弟君はまだ黒ゲジゲジのままだ。がんばれ。
それにしてもレモンの葉、足りるのだろうか…。
(後編に続く)
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