信仰周りの気づきのめも
信仰って言うからすごい大げさに聞こえるが、
「私こっちの方がいいと思う」なんかも対象に含まれる。
私が直面する他者のある時点において、
その他者が信じていること
そうと読み取れること
例えば傘を持っている人に対して、
その人は「この後雨が降るかもしれない」と思っているだろう
と読み取ったとして。
「雨なんて降らないよ」と言うのは私にはできないな、という気づき。
宗教とか神様とかのほうの信仰の話になるけど、その手の信仰は「おそれ」から生まれたものであって、現代に至るまでに消えてしまったものは「おそれ」る必要がなくなったからだったりする。と、私は思っている。
文明の火は獣を遠ざけたし、夜にあかりを灯した。
そんな感じで、祟り神を祀った神社は今もまだあるけれど、祟りと呼ばれていた現象は個別に対症療法が生まれ、おそれるに足るものではなくなった。祟りは非文明的なものとして、今それを本気で信じて言葉にしたら、たぶん、陰謀論よりも嘲笑される。
災害から救ってくれた何某を祀った神社も今まだあるけれど、それにだって対症療法が生まれている。疫病にはワクチン。自然災害はどうしようもないけど、復興しやすいようにって耐震免震、防火設備や治水が行われてきた。被災したときに祈るばかりでいれば、今はきっと、祈っている間にやれることをやれ、と怒られる。
そうしてたくさんの信仰が死んで、生き残ったものを指して「信仰」というものだから、それがとても特別なように思えるようになった。
「信仰とかないですー」みたいな。ないほうが普通、というか。
「ないほうが普通」になったらどうなるか。
信仰を取り上げることにためらいがなくなるのだと思う。
だってないほうが普通だもん。なくても全然支障がないもん。
ためらいがなくなるのは自然なことだし、悪いことではぜんぜんない。
「雨が降るって予報が出てたから傘持ってきたんだ」
に対して「先のことを考えてえらいね」と言える人と、
「死んだあとに残される人が不幸になるのが嫌だから喜捨したんだ」
に対して「先のことを考えてえらいね」と言える人は必ずしも同じじゃない。(そんな言い方をすれば、世のことほとんどぜんぶ、”必ずしも同じじゃない”けどもな)
ただ私は、この二つのことを同じだと思っている。
同じだと思うか、違うと思うか、どっちが正しいか、みたいな話でもないと思うので、そういうことを言いたいわけではない。
なんていうか、強さを見つめる時間が長くなってきて、こういう感覚がどこかに行くなと思ったから書き留めておきたかっただけ。強さは生存に不可欠な要素だから、どうしても見ていないといけない。強い個体が生き残るから、弱いことは悪だと切って捨てた方が身軽になれる。
でもやっぱり弱さとか、脆さとか、ある方がいいなぁ。
などと。重たい身体を引きずりながら考えるのであった。
たとえば、続けていたら絶対に死ぬと分かっているような「お勤め」に熱心に励み、その先に希望を見ているような友人がいたら。
私は止められないけど、止める人はいるんだろう。
友人にとって、その結果がどうなのか、は。たぶん、止めなかった私のせいにもならないし、止めた誰かのせいにもならない。
いい方に転んだというのなら、それは友人の運がよかった。
悪い方に転んだというのなら、それは友人の運が悪かった。
たぶん、それだけの話。
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