愛されたいというのは本当の愛ではないのです

1987年5/31千代田区公会堂で説かれた


愛の原理

愛の原理で説かれた法話もスケールの大きなものでした。法の体系は大川隆法総裁が弱冠 30歳の頃にはすでに 出来上がっていました。

これを いかに私たちの心に伝えていくか
千差万別の個性や環境の人々は 国々に伝えきれるかということでの応用的な説法が  これ以降続いていました。

(さらに それを越えて宇宙時代に入ろうとする人類にとって、新しく必要となっていく宇宙の法についても説かれることが 折々に話されていたのです。)


幸福の科学の十大原理 上巻 第2章に収録されています。

今読み返してみて 心に響く言葉を抜き出してみました。

幸福の科学では 
奪う愛と与える愛という言葉で表現していますが、愛にはベクトルが反対の2つの方向があります。

この
「愛されたい」という気持ちでの愛は
釈尊が一蹴した「渇愛」「タンハー」すなわち渇きにしか過ぎないと説かれています。

仏教では「愛」という言葉を「執着」の代名詞のように使っています。そこにある代表的な考えは「男女の愛」にカンする苦しみであります。愛を苦しみとして捉えているのです。仏教が苦しみとして捕らえている愛は、この「本能の愛」、渇愛、タンハーです。
 しかし、イエスも、この愛については、それほど強調したわけではありません。
それもあることを認めながら、この上を主として言ったわけです。これが「隣人愛」です。

愛の発展段階説

愛の教えは
キリスト教で説かれる愛と
同じなのか
異なるものなのか、

愛の原理のなかで
イエス・キリストの愛の限界についても語られています。
本来 時間をかけて愛についての段階もイエスキリストは説かれるはずだったのですが、 イエス様には時間が無かったことも説かれています
伝道のなかで 多くの困難が現れてきたからです。

愛には 与える側にたつか 奪う側にたつかという方向性の違いがあります。
そして、多くの人が貰うほう、奪う方の愛を 愛だと誤解しているのです。

それは 本当の愛ではないのです。

愛の段階ー本能の愛(4次元の愛)

この本能の愛が悪い方に出て「執着」あるいは「渇愛」として展開されたときには、そこに地獄界をつくっていきます。
 地獄界のなかには「色情地獄」という男女の道を誤った者たちが行く地獄があります。4次元のなかの間違った人たちは、こうしたところで本能の愛をいまだに学んでいます。
 男女の愛や親子後に愛のみに生きた人であっても、そのなかでももう少し安らぎを得た人たちは、4次元のなかでも「精霊界」という、いちおう救われた人々の世界にいます。次元構造で言うと4次元幽界に「本能の愛」が相当するわけです。
 ただ、これは、人間が地上を去ったときに、みな等しく還る世界です。等しく還る世界である以上、そこへ行くことが人生の目的であるわけはないのです。

愛の段階ー愛する愛(5次元の愛)

「愛する愛」とは「与える愛」です。
「手に入れたい」「愛されたい」という愛ではなくて、「与える愛」の段階に踏みいっているわけです。
 5次元霊界を、「善人界」ともいいますが、ここにいる人たち、5次元の住人は、「愛の本質は、人に与えることである。人に優しくすることである」ということを少なくとも悟っているのです。ー中略ー
5次元の愛は「隣人愛」です。肉親という、生まれ持っての絆によって結ばれている者を愛するのではなく、「縁あって人生の途上で出会った人々、会社のなか、社会での活動のなか、学校のなか、こうしたところで出会った人々を愛する」ということ、これに目覚めることです。これが「本能の愛」の上にある「愛する愛」の段階です。ー中略ー

みなさんの考えている愛は、渇愛、すなわち飢え渇いている愛なのか、少なくとも、「人に対して優しくしなければならない。親切にしなければならない」という与える愛なのか、これを考えていただきたいのです。

愛の段階ー生かす愛(6次元の愛)

「生かす愛」は他の人々を導く愛です。すなわち、指導者としての愛であり、教師としての愛です。
 そうしてみると、他人を生かす愛、「他人を生かして、その神性、仏性を引き延ばし、さらに魂修行を高め、その人を導く愛」を与えられるようになるためには、前提条件があるはずです。
この前提条件とは、いったい何でしょうか。「この生かす愛を実践できるのは優れた人でなければ不可能だ」ということです。周りの人に面倒を見てもらわなければならないような自分であっては、他の人々を導くことはできないのです。ー中略ー
この世的に言えば経営者、教師、芸術家、文学者、医者、裁判官、弁護士、政治家、官僚など、少なくとも、自らを磨いて人から尊敬されるような立場まで高めた人の愛なのです。
 ただ、現代において、そうした人たちを見渡してみると、残念ながら、本来は導きの愛、生かす愛を実践しなければならない、地位のある人たちが、自らの名利のために、栄誉のために、地位のためにやっているのが現状であります。ー中略ー
したがって、この愛の段階はいっそう厳しいものとなってきているわけです。すなわち、この世的にも優れており、才能を持っていて、世の人々を指導している人たちが「もらう愛」ではなくて「与える愛」を実践した後、6次元光明界に還っていくのであります。

愛の段階ー許す愛(7次元の愛)

菩薩界と呼んでいる7次元世界です

菩薩とは 6次元光明界における
「自分づくりくり」が終わった段階
西洋では天使といわれる方々のことです。

心の錆を落とし、光を出して「阿羅漢」になり、そしていよいよ不退転となり、利他のために勇気ある一歩を踏み出し、その実践をし、その実践のなかに自らの身を置いている人たち、他人のために自分を投ぜんとしている人たちがいるのが、この菩薩の世界、7次元の世界なのです。

人間は、この世に生きているだけでは、「他人のために生きる」という大海のような大きな愛に生きることは、なかなかできません。生まれてからの教育や思想、習慣だけでは、それは不可能です。
 この境地に至るためには、神秘体験なり、尊師など優れた人との出会いなり、さまざまなものが必要です。それがあって宗教境地へと飛び越しているわけです。こうした方々であるからこそ、「寛容」という心が芽生えてくるのです。

優れた人であっても、自分の前に立ちはだかる者が現れたときに、その人をイエスが言ったように許せるかというと、なかなかそうはいかないのです。
 自分の考えを受け入れてくれる人、例えば、そういう社員を愛して導くことはできるけれども、自分の考えを受け入れてくれないような社員がいると、やはり気に食わないのが経営者です。 懲罰の対象にしてみたり、左遷をしてみたりしたくもなります。やはり、「自分の考えることを、その通り受け入れてくれる人を引っ張りたい」という気持ちがあるのです。
このあたりが「生かす愛」から「許す愛」へと飛躍するための試金石なのです。

自分の考えを受け入れてくれる人ならを引っ張りたいけれども、受け入れない人は左遷したりしたくなるというのは 会社で役職についている人ならありがちなことではないでしょうか。

ただ 許す愛とはいえ 相手の認識がたりずに間違っていることまで許すというものではないと思います。
あくまでも その人の 魂の尊さ認めていくということだと思います。


愛の段階ー存在の愛(8次元の愛)

愛の段階ー救世主の愛(9次元の愛)

と続いて説かれていますが 長くなりますのでこの辺で。

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