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ロズウェル事件と御利益信仰について語る及川さん

キリスト教徒の人のなかには、聖書に書かれている内容を絶対だと信じておられてUFOや宇宙人情報には抵抗を示される方も多いのかもしれません。

トランプ前大統領の支持層にも福音派のキリスト教徒の方がいて トランプさんのUFO情報開示については 疑問視されたようにも聞きます。

ただ、聖書に題材を取った宗教画には これはUFOじゃないのか?と思われる不思議な物体が描かれていることがあります。

  最近続々とアメリカ政府関係からもUFOや宇宙人の情報が 出てくるようになりました。秘密保持契約に縛られなくなってきた為 軍関係者や技術者からの証言も 表に出るようになってきました。

ロズウェルでのUFO墜落事件は 昔矢追純一さんのTV番組等でよく見る機会がありました。
懐かしい話です。

この宇宙人UFO情報の前半と打って代わって
後半

18分30秒辺りから 御利益信仰についての話が出てきてこちらも興味深く感じました。

御利益信仰

そもそもクリスチャンでもあった及川さんの信仰についての話は 他の信仰に触れずに幸福の科学に入信した方とも違うように感じます。伝統的なキリスト教についても御存じだからでしょうか。

仏教も、キリスト教も 世界宗教になったものは御利益信仰ではないという話です。

イエス様が多くの病人を奇跡を起こして治されましたが、病を癒やされた人々は その時だけで  最期までイエス様に付き従うような信仰を持ち続けることはなかったということが 聖書には描かれているのだということでした。

その時は、嬉しいけれども、信じることが自分にとって不利益になるようだと離れていってしまった人は多かったのです。

聖書を読んでいても、種を撒く人の喩えが出てきます。

種を撒く人が種蒔きに出ていった。撒いている間に、ある種は道端に落ち、酉が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけの土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の上に落ち、茨がそれを塞いでしまった。ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍になった。耳のあるものは聞きなさい。

マタイによる福音書13

だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪いものが来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人である。
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるからだろうねものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである。

マタイによる福音書13-18

信仰に出会っても このように 多くのこの世の煩い、苦難が出てきます。その時に手離してしまう人は 2000年前のイエス様に様の時代から変わっていません。

現代の文明は イエス様を十字架につけましたし、その後に天上界から送り出した救世主マニも迫害を受けて殺されています。

新しい教えを 受け入れるのは 既に 既成宗教となり世俗権力と結び付いてしまった宗教にとっても、信仰者にとっても魂の試験のようなものなのかもしれません。

日本に仏教が伝来したときも、やはり日本神道の神々を奉じる人々との対立や争いはありましたね。

世間虚仮 唯仏是真

聖徳太子の言葉とされています。


「世間虚仮 唯仏是真」(世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり)。 これは聖徳太子の言葉として伝えられているものです。 お金や地位や名誉や権力などを価値あるものとしている世間は「虚仮」(虚しくて仮のもの)であって、 ただ仏のみが「真実」である、というのです。 仏法に触れることで見えてきた世界。

この世は仮の世界であり 仏の説かれるあの世の世界が実相であるということでしょうか。

世間虚仮

この考えからは、ご利益信仰は導き出されず、実相である霊的生命である魂の向上を目指す生き方を教えが説かれていくのです。

メシアの法
第5章 メシアの愛で次のように主は説かれています。

いろいろな文明や文化のなかで、あるいは戦争と平和の両方、もしくは中間のなかで、いろいろな魂経験をしていきます。そのなかで学んでほしいことは、「どんな環境下にあっても、魂を持った人間としてどのように生きるべきかであるかを探求する」ということです。「自分自身の霊性を見失ってはならない」「霊的な人格としての自分を見失ってはいけない」ということです。これは、豊かになっても見失われやすいものです。お金がありすぎて、裕福で、大きな権力を持っていたとしても、ともすれば見失われることであるのですけれども、貧しくてもまた、ある意味での唯物論に走ることはあって、「物がすべて」ということになることもあります。

メシアの法p269

どんな環境下にあっても、魂を持った人間としてどのように生きるべきかであるかを探求する

やはり、ここからもご利益信仰の考えはありませんね。



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