悟りのあとの修行 悟ったという完成形はない

悟りには無限の階程があり 悟った ということはないと聞いた記憶があります。

膨大な経典のなかの どこに何が書かれていたか いつ 何を説かれていたか、 現在進行形で30年以上新しい教えが説かれるので 今までに説かれた教えを忘れないでいるだけでも大変です。

新しい教えが 説かれていくことは 幸福の科学の魅力のひとつでもありますが ともすれば それを追いかけるだけで 自分の知識が増えたことだけを持って 何か 自分が向上しているかのように錯覚する魔境もあるように思います。

真理を知ったなら 世の中の役に立つ生き方をする事。愛深き人間になること。 見識の高い人間になること。自分に厳しく人に優しい生き方をする事。善を取り悪を遠ざけること。

当たり前の事を当たり前にできることが、何より大切。凡事徹底するというのは、地味な地味な修業です。でも 本来はそれができてこそ 教学も生きてくるのでしょう。

教祖伝となった 映画

夜明けを信じて

こちらでは 大川隆法総裁の社会人の頃までと大悟した頃の話が描かれています。

名古屋での降魔成道の部分は 人間として 生きているなかで 使命を告げられたあとの最後の葛藤部分に 悪魔が 攻撃を仕掛けてくる部分が描かれています。

また 悟りを開いたらそれで 終わりというわけでもなく、隙あらばと恒に狙う霊的な存在があることも 様々な説法のなかで述べられています。

その魔の付け入る隙を許さないためには コツコツと毎日努力をする事 明るい積極的な心を持つこと、体力をつけること 反省の習慣を持つこと。仕事能力をあげること 等々 様々な知恵や具体的な方策も説いてくださっています。仕事がキャパオーバーしてしまい、自分で解決できないで悩んでいる状態も続くと危ないのです。

修行が進むと霊的な世界との交流が始まる人も多いようですが、心の錆び落としや点検を怠ると 高級霊界からの影響が いつの間にか 悪いものにすり換わっていくことがあります。慢心してしまうことの怖さがここにあります。



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