道徳と宗教は何が違うのか


宗教がなくとも構わないという意見は今の日本には拡がっていると思います。

地方の古い家屋を除いて
新築の住宅紹介を見ても
神棚や仏壇を配置する
スペースがない家がほとんどです。

道徳心があれば宗教は必要ないのでしょうか。
宗教が連綿と人類史のなかで続いてきた理由は何なのでしょうか。

大悟の法 第4章 「大悟の瞬間」に収められた法話が上がっています。

宗教は世界各地にあります。しかも、交通手段も連絡手段もあまり発達していなかった時代から、別々の国に、同じような根拠を持った宗教が数多く存在しています。そして、それぞれの宗教において、仏や神に相当する偉大な光の存在があり、また死後の生命や生まれ変わりの思想が多く見られます。

大悟の法p190~p191


道徳が この世で完結するのに対して

宗教は 肉体を去った後の人生にも

影響を持つものと考えていいでしょう。

どうしても 宗教には「死」と向かい合わざるを得ない人間の根源的な問いかけに答えるものではないかと思うのです。

この大悟の瞬間の説法のなかで


自他一体の悟り

について釈尊の悟りを例に話されています。

釈尊は、「第一時的な霊眼によれば、自分と他人は別個の存在のようにも見えるが、もっと深い目で見たときには、自他は別のようであって別ではない。自他は別個に非ず、一体なり」ということを悟りました。「自分と他人、自分の魂と他人の魂は、別のように見えるけれども、そうではない」ということです。

大悟の法p195

道徳心とは違う点は
人間が霊的な存在であることを知って
肉体的には我と別の存在である他人と
いうものが、霊的な世界では本当はつながっているということを悟ったとき

他人に優しくする 親切にする、思いやるといった道徳的に良いとされる行動が 本当はもっと深いものであると知るということだと思うのです。

各人は、ばらばらに住んでいるように見えても、ちょうど、電話の配線工事がなされていて、それぞれの電話機にコードがつながっているようなものなのです。各人の存在は、そういうものであるのです。各人は別個の
゛ナンバー゛を持っていながら、実は、すべてつながっている存在なのです。 
 そして、それをつなげているものは、いったい何かといえば⁉️それこそが、心の法則にほかなりません。
 心の法則は普遍のものであり、その法則には、人種や性別、年齢、あるいは時代を越えて、共通のものがあります。
 「このような心であれば、こういう世界に通じる。こういう人たちと通じる」「このような思いを出せば、こういう未来が展開する」
という、共通の心の法則があるのです。

大悟の法p198

大川隆法総裁先生が地上に降りられて、困難な宗教家としての道を歩まれたのも、現代の世界で、忘れ去られて久しい 心の法則を 再び蘇えさせて新しい生命を吹き込むことにもあったのだと思ったりします。

釈尊は、物質的に見える自分とは異なった「霊的世界につながる我」という自我観を持ったのであり、それを「無我」という言葉で表したのです。無我とは「我がない」ということではなく「偉大なる大河とつながっている我」ということであったのです。

大悟の法p199

今は無我の教えを 霊魂が無いと捉える仏教学者が僧侶の教育にあたることもあると聞いて驚きます。釈尊の悟りが全く分かっていないということだと思います。

この無我の思想は、言葉を換えて言うならば、当然ながら、利他、愛他の思想へとつながっていくものであったのです。「自分は、孤立して独りで生きているものではない」ということを悟ったとき、利他、愛他の行為とは、元なる自分自身を生かすことであり、利他、愛他の思いとは、同時代の同期生として生きている魂たちを、共に愛し、慈しむ心なのです。
したがって、愛他、利他の思いそのものもまた、無我なのです。

大悟の法p199

釈尊の無我の思想には、「自分の心の内なる広大無辺な領域を知り、その法則に精通する」ということと同時に、人間の生きていく意味として「他の者、同じく魂修行をしている多くの人々を、慈しみの眼でもって見、そして、はぐくみ、導いていき、共に幸福になっていこう」という悟りがあったのです。
この点を忘れてはいけないと思います。

大悟の法p201

宗教の世界、あるいは超能力の世界において、霊的な感覚を持っている人は数多くいますが、愛他、利他の思いにまで届かずに、霊的なもののみに関心を示しているうちは、まだ、魂的には、仙人界や天狗界と呼ばれる裏側の世界に属していると云わざるを得ないのです。
菩薩や如来といわれる人たちのいる、本来の表側の魂系団に入るためには「真実の自己を知る」ということと共に「その真実の自己を知る行為が、利他、愛他へとつながっていく」ということが必要です。そういう悟りが必要なのです。
これは共に社会を発展させていく力とつながる宗教であることを意味します。

大悟の法p201~p202

霊的なものやスピリチュアルに傾倒してしまう傾向は私のなかにもあると思います。

でも それでは駄目ですよと 教えられているのですね。
他の人への愛が実践できているか
日々与えられているものに感謝の心を持って生活しているか
自分のの心の中にまずユートピアを作り 
それを周囲に拡げていくことが出来ているかが問われています。

共産主義思想のなかにも 弱い立場の人への愛があるとは思うのです
が、
それが機能しなくなるのはやはり自らの心を見つめ、神仏の目からみての自他一体の境地
から来る愛ではなくて
物質的なこの世のみの視点で幸福を追い求めているからのように思います。

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