神の子 仏の子である人間の正しき心って何?

もし 人間が この肉体を持って生きている時間だけがすべてだとすると それは この世で できるだけ自分の自由に生きて 他の人を顧みないで 自分の欲望だけを追求するような生き方をするでしょう。

けれども、人間が神や仏の子として生まれてきて 神仏の境地に近づいてゆくために永遠の時間の流れのなかで転生輪廻を繰り返しているということを知ると やはり 自分だけの幸福追求だけでは いけないということに気がつき出しますし 反省も入ってくるのだと思います。

今 地球で起きていることの混乱の根本には 神仏の心がわからなくなった人類が 各自に幸福を追求するあまり 世界の不幸を生み出しているのではないかとも思えます。

善悪の基準も 逆転した世界も一部には拡がっているのかもしれません。

救世主は 人類にとって大きな困難が迫った時代に降りて新たな教えを説かれてきたのだと思います。

心って何だろう 正しさって何だろう

1987年に 「心の原理」という法が説かれました。幸福の科学の十大原理 上巻 三章に収められています。

そこでは このように仰られています。

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知識ばかりを追い求めていくようになると 
残念ながら、知っても知っても、人間の向上というものはないのであります。まず、「心」あってこその「知」であるということを知らなければならないのです。


幸福の科学の基本理念としては、「愛・知・反省・発展」ということを4つの原理の前に「正しき心の探求」ということを挙げているはずであります。

「正しき心とは何か」ということを、みなさんにはつかんでほしいのです。これが、出発点おける「個の悟り」です。

個人が自分を磨いて磨いて磨いて、そして自分の限界を越えたときに、初めてその自分の目が自分から外へと向いていくのです。

人間は、基本的に、「自分自身の行き方」と「自分自身の生き方が招来した結果」に対し、まず責任を取らなければならないということです。

みなさん一人ひとりが、まず自分自身のことを見つめ、自分自身の思いと行いに関し、その結果に関して、自信を持って責任を取らなければならないわけです。そうでなくして、どうしてお互いに他人を幸福にしようとして歩くのでしょうか。お互いに他人の頭の上に止まったハエを追い回しているのでしょうか。まず自分の阿玉の上のハエを追わずして、人の頭の上のハエを追うことばかりに心をとらわれてはならないのです。

幸福の科学で説いている「正しさ」とは、本来の人間が持っていたところの正しさであります。悠久の昔から、無限の昔から私たちが与えられていた、そのような心を取り戻すという、その目標が、「正しき心の探求」という目標であるわけです。

本来、人間というものは、はるかな昔、魂によって創られた時期は異なっているものの、平均的に見て、今から数十億年前に創られたと考えてもよいでしょう。そのころに、銀河のある場所で偉大な神の光が散乱して、さまざまな光子体というものに分かれていったのです。それが人類を創るための最初の歴史だったわけです。
 その光の粒は、個性あるものとして散らばったのですが、やがて独自の意識を持って、それぞれの生命の過程というものを自分自身で味わうようになっていったのであります。

そこで、私達が想起しなければ成らないことは、「われわれがどこから出てきたのか」「出てきたときに、どのような念いを、どのような性質を、どのような理念を宿していたか」ということです。

幸福の科学では さまざまな霊言集等のなかで、「天上界にもさまざまな世界がある」ということを語っています。また、みなさんに知らせているわけです。

ただ、私たちは、天上界にある理想世界を地上に現出するためだけに出ているのでひないのです。天上界にある姿とてまだ完全ではなく、われわれが悠久の昔に満喫していた「魂の自由」から見れば、はるかに不自由な世界を、天上界においても、現在、展開しているのです。
 それゆえに、われらは今、新たな歴史の折り返し地点に立って、悠久の昔に得ていた「魂の自由」を「魂の本質」を取り戻さなければならないわけです。

それでは、その魂の本質、心の本質とは、いったいどのようなものでありましょうか。どのような心が、みなさんにとっての本来の姿なのでしょうか。その本来の人間が姿を取り戻すために、どのようにして「正しさ」というものを探求しているのでしょうか。しなければならないのでしょうか。ここが肝要な点です。

「神は本来、光である」といいます。ただ、その光は、単なる照明の光とは違いさまざまな属性というものを っているわけです。

その属性のなかには、一つには「愛」があります。一つには「慈悲」があります。一つには「知」があります。一つには「繁栄」があります。さまざまな属性というものがあって、ダイヤモンドの面のごとく多面的な光というものを散乱させているのです。


世の多くの指導者たちは、このダイヤモンドの輝き、七色の輝きを説明し尽くすことができずに、その一面のみを語っているわけです。
 しかし、「ダイヤモンドの本質は何か」ということを、私たちはしかとつかまなければならないのです。このダイヤモンドの本質をつかむことが みなさんの魂にとっての今後の修行の方向となるからです。

これは、決して自分を外に在るものではないのです。
「四次元以降の世界というのは、自分の目に見えぬ世界であってでどこか上空にそういう世界があるのではないか。目には見えないけれども、高度五百メートルか、五千メートル千メートル、一万メートルのところに、そうした魂の境涯が合って、私たちは肉体を脱ぎ捨てたときに、そうしたところに行くのではないか』とお考えかもしれませんが、そうではないのです。そうではなく、自分の心の内に『すべての世界」が含まれているのです。

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私たちは この100年あまりの人生をもって すべてだという人生観から抜け出して

 魂として数十億年も昔に創られた存在だと知ること



神が光であり 私たちもまた その神の子として  光の一粒として 神の光を宿した存在であることを知ること


多面体のダイヤモンドのような光のすべてでが説かれることは 難しくて その一面のみが指導者によって 語られている


ダイヤモンドそのものを 本質をつかむことが修行の方向であること


このダイヤモンドというのが 私たちの心なのだと思います。

神の子としての尊さというのは本来は何物にも替えがたいものなのだと思うのですがが それを人類は忘れさっているでしょう。

この教えは1987年 大川隆法総裁が31歳のときに牛込公会堂で説かれました。

私も年齢を重ね 過去説かれた教えを再び 紐解いてみる度に その教えに圧倒されてしまうことがあります。

組織として固まっていくにつれ 世界の人への発信が始まるにつれて 信仰の大切さも説かれるようになりましたが 

信仰とは

 私達が神の子として尊い存在であることを まず最初に知ることと 

神の子としての正しき心を知ることのように
思います。


みなさん一人ひとりが、まず自分自身のことを見つめ、自分自身の思いと行いに関し、その結果に関して、自信を持って責任を取らなければならないわけです。そうでなくして、どうしてお互いに他人を幸福にしようとして歩くのでしょうか。


時事問題を追いかけて物事を考えているといつも この 原点を 忘れがちになってしまうので 自戒しておかねばならないと思います。




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