幸福の科学の魅力

幸福の科学の魅力は 飽きないところなどと言ったら 真面目な信者さんには怒られてしまいそうです😅が  経典宗教ではなく 現在進行形の啓示宗教である幸福の科学では 現在ただいま世界で起きていることに対する 神仏のお考えを お聞きできるところにその魅力があります。

もちろん 大川隆法総裁先生を 主エル・カンターレと信じている人と 宗教家や思想家としてのみ見ている人 さらに霊言論をイタコ芸等とバカにする人では 全く認識が違うのは当然です。

主エル・カンターレを人間として 見るか 神様として見るか 等はとても難しいと思いますが 少なくとも 100年後 1000年後 2000後の未来から見れば 確立したエル・カンターレとしての大川隆法総裁先生を 捉えられると思っています。

イエス様が救世主としてユダヤの地に降りられときも 信仰を持つ人々の間でも最終的には在世中にイエス様が救世主として ユダヤ残した人々から認められたわけではありませんでした。僅かな人々が付き従っただけでした。

同時代に 来るべき人を その人と認めるのはとても難しく

 信じるしかない

という世界に飛び込まないとわからないものもあると思います。

私自身 会員に成ってから 10年経ってからようやく少しずつ主エル・カンターレと大川隆法先生が繋がってきたので 批判的に見ている人の気持ちもわからないではありません。

しかし 大川隆法総裁先生がこの35年積み重ねて来た実績と

 たとえ、教団組織に損になるようなことであっても 敵を作るような事があっても 真実は真実と正々堂々と訴え続けられた嘘のない姿勢に本物だと思うようになりました。

私が 最初疑いの目で見ていたのは過去のトラウマがあります。

 1980代には

 「我は仏陀なり」 

「我は再臨主なり」

すという新興宗教が多く存在していました。

20歳の頃  韓国のキリスト教系の宗教からも勧誘を受けた事があり たまたま 聖書に関心があった時期だったので 暫く聖書やそこで独自に出している経典を学ぶ機会もあったからです。

その宗教では 教祖を 再臨主としていました。それは私には判断できないことでありましたが 教義にどうしても納得できないものがありました。

人類の歴史を6000年としてアダムとエバの堕落により人類は神の子ではなく サタンの血を引き継ぐものになってしまったからもう一度神の子として復帰しなければならないという思想を教えていましたが それがどうしても納得できなかったのです。

アダムとエバ (イブとも言いますが)の罪が何で 私と 関係あるの?ぶっちゃけ言えば そこです。

 私の悩みや罪は 私自身が作ったものであって 何千年前のどこの誰とも知らないアダムやイブの罪とは関係ないよ。アダムというイブのせいにしておれば 自分の問題ではなく 人類全体の問題と考えておけるので 気持ち的には 慰めになりますが。

どこか微妙にすり替えがあるように思われたのです。

また 罪の意味も唯物的な感じがしました。

信者さん達は真面目な親切な人が多かったと思います。しかし、教えの内容があまりに薄く仏教や日本神道 イスラム教 その他多くの宗教があるなかで 世界の宗教を統一して神の国を繕うという教えとにしては 他の宗教に対しての理解が浅く感じました。

大きな宗教は組織が出来たあと 必ずといって良いほど、組織運営の不満からくる批判的な意見が出てきています。まっとうな批判もあれば 信仰や宗教に対する知識のないところから来る批判もあります。反対する人の意見も聞いておきたいという気持ちから 批判本にも目を通す傾向が私にはあります。

そして、 やはりこれは本物ではないと感想を持ちました。

その数年後に幸福の科学に出会ってから 幸福の科学の霊言の内容に 心を照らす光を感じて 納得できたものの 果たして 東大卒 商社マン勤務を経て宗教家になった人が 再誕のは仏陀であり さらに エル・カンターレであるのだろうかと 受け入れるには まだまだ時間がかかったのです。

当時 神様の言葉預かる預言者的な存在としての大川隆法総裁先生は信じられのですが、

預言者であっても 神仏の言葉が いつの間にか 反対のものに変わっていくということも聞いていたので 闇雲に信じるのは怖かったのです。ですので アンチや退会者の批判的なブログにも目を通すことをしてはいましたが それらの批判も 

組織運営での面

 前夫人や長男氏らの家庭問題 

過去世認定の変更

 未来予言の変更

等に収束されていて 法そのものに対する納得できる批判ではありませんでした。

法を見るものは仏陀を見る

仏陀を見るものは法を見る

という言葉通り

直感的にではありますが 大川隆法総裁先生の本当の姿というのは 肉体のある私達と同様に生活している姿ではなく 説かれる教えそのものが 本当の姿ではないかと 思ったのです。

教え そのものに 魅了されたのだと思います。


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