愛一元

私たちの住んでいる世界は愛一元の世界である。憎しみという感情も、嫉妬という感情も、怒りという感情も、愛に対立するものではない。ましてや愛一元のこの世に反旗をひるがえすだけの力はありはしない。

 憎しみは誤解から生ずる。嫉妬は愛の不足である。怒りはおろかな自己愛、己を守ろうとするところから発する病める自己愛である。

 この世界が愛一元の世界であることを悟り、曇りの日にも、雨の日にも、いと高き天には太陽がさんさんと輝き、惜しみなく光をなげかけていることを知るならば、私達の心は常に幸せに満たされてくる。

 私達が愛一元の世界に生きていることを信ずるならば、私たちは愛に生き、愛のために死ぬことができよう。
 真に愛のために生き、真に愛のために死ぬことが出来たならば、人よ、あなたは人生の勝者でなくて一体何者であろうか。
 ああ、愛一元、光一元の世界に私たちは生きている。

        1982年10月11日 ニューヨークにて

これは、

大川隆法総裁が宗教家として世に立つ前の 商社マン時代に書かれた論考です。

原説・『 愛の発展段階説』序章に収められています。

25歳から28歳頃までの原稿群が見つかり、それが1冊の経典としてまとめられたものです。

40年ほど前 若き大川隆法総裁の 愛の思想について知ることができます。


私の法は「愛」に始まり「愛」に終わるであろう


という 2021年 メシアの法の あとがきに
しるされた 

言葉の原点にあたるものになるのではないかと思います。

商社マンというこの世での仕事をこなしながら、三次元の物質的世界を越える 思索を続けた 若き日の大川隆法に会える書物でもあります。


なぜ 人間を 神だと 信じることが できるのか?


おそらく、幸福の科学に疑問を持つ人にとって人間である 大川隆法総裁を 

主エルカンターレと信じられることが不思議であろうかと思います。


私自身も 長く この疑問を 自分自身が持ち、
問われたときに、どう答えることができるのかを 自らに問い続けてきたように思います。

祈りや瞑想によって直感的に掴める一瞬はあっても それをどう 他人に説明できるかということです。

太陽の法 1冊を読んで 号泣したという方がいます。
私には それが 理解できなかった。
大川隆法総裁が
仏や神であるという 事は
長く 信じることができなかったのです。


それが なぜ 信じるようになったのか

それも もう一度 自分自身にも問うてみたいと思うのです。
 

序章 から終章までで 全部で8章までの章だてになっています。

どの章も 一言一言を大切に読み解いてほしいという 著者の言葉がまえがきにありますが、一行読んでは 考え、一行読んでは考えさせられるものでした。


特に感慨深く読ませていただいたのは 

第3章愛と人間 の章です。

小見出しには

愛と情欲
愛と純潔
愛とその敵
  1愛とストイシズム
  2愛と知力
  3愛と恋愛
  4愛と野心
  5愛と神経症
  6愛とコンプレックス

とついています。

現代の宗教のなかで 愛については 恋愛や性の問題を どのようにとらえているのでしょうか。


私は 大川総裁総裁先生が 大悟される1981年前に 

原理研究会という名前のキリスト教の団体ですという大学生よりアンケートを受けたことがあります。

神様を信じていますか?
尊敬する人は誰ですか?
ナドと言うアンケートだったと記憶しているのですが

勉強している仲間もいるので一緒に
勉強してみませんか?

という言葉に ずいぶん迷ったのですが、
とても真面目そうな人に見えましたし
たまたま そのときに 聖書を鞄のなかにいれて
読んでいた頃だったので

不思議なご縁を感じて 翌日 その大学生の
仲間たちが勉強している寮で
原理口論を聞くことになったのです。

それをきっかけに しばらく 勧められるままに
泊まりがけの学習会で7日間のものにまで
参加することになりました。

それが 今 解散請求を出されている 旧統一教会の学生部だったのです。


なかにいる人たちは 真面目で良い人たちが
本当に多かったのです。

でも、教えのなかに どうしても納得できないものがいくつかありました。

人間がサタンの血統のなかにあるから再臨するメシアを通じて祝福を受けないと 神の血統に戻れない 

というものであり、

再臨復活という曖昧な輪廻転生の解釈であり、仏教霊界は低い霊界であるという ものにも釈然としませんでしたし、

再臨のメシアが 一度も侵略行為をしたことの無い国から生まれる。それが韓国であるというのも ピンと来ない話でした。

地域の教会も紹介されたのですが、そこで献身者として教会の仕事に専念しているという人が 月に1万円のお小遣いだけで 共同生活して 珍味や花等 福祉団体の名前を借りて 売っていたのです。

それを 万物復帰と言って サタンのもとに堕ちてしまった世界の物を神の元に返すための物だと正当化していました。

救世主を戴く、団体のすることでは ないでしょう。
教えが 明らかにおかしいと思いました。


ここで  私は 再臨主や 再誕する〇〇という言葉には 距離を置くようになりました。

それから しばらくして 幸福の科学の霊言集に出会ってからも、言っていることはいいけれども 信じることは出来ないという期間が
10年ほどは続いていたのだと思います。

ただ 振り返ってみて なぜ 明らかに間違った活動や教えだと 思える宗教でも 信じる人が(世間から叩かれても)いるのは、
ひとつには 霊的世界の真実がわからなくなっていること。


唯物論的家庭、唯物論的教育環境、唯物論的社会にになりつつある世界の中で 生きづらさを感じている人たちが 仲間を作る場が無いこと。

もうひとつには 愛の問題について解決がついていないこと。

実際、私にアンケートをした大学生は 豊かな家庭環境であったようですが、お母様が 自殺されていました。

紹介された地域の教会の寮のリーダーをしていた女性も弟さんが自死されていました。

なぜ 信仰を持つに至ったのかという経緯を彼女から聞いた時に

積極的に前向きに生きよう、生きようとして叱咤激励している姉と 
それについていけず 最後に死を選んだ弟の話をされました。

世の中には、愛について 生きる意味について
唯物論的な世界では 解決できない多くの心の問題を 抱えて苦しんでいる人がたくさんいて

彼ら 、彼女らの 心を 受け入れてくれる場所がなかったのだと思うのです。






 

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