愛にみかえりを求めてしまうとき

親が生まれてきた子供に対して持つ自然な愛は みかえりを求めないものだったはずなのに いつの間にか 子供に対して無意識にお返しを要求していることがあるように思いました。「太陽の法」の3章に 愛の大河という章があります。

愛についての この章は 20代の時には読めませんでした。活字は読めても 心に入っていかないのです。当時の心は荒んでいたと思います。年月を経て読み返すと 私の心の過ちがどこにあったかが わかってきました。

愛の本質とは、まず、与えることなのです。この点をよく理解していただきたいと思います。
愛に苦しむ人々よ、よく聞きなさい。なぜあなたがたは、苦しむのですか。なぜ愛において苦しむのですか。愛を与えることによって苦しむのですか。みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です。与える愛とは、すなわち、無償の愛です。
あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。その愛を神にかえしてゆくために、私たちは、ほかの人々を愛すべきなのです。
苦しみの原因は、自分はほかの人を愛しているのに、ほかの人は自分を愛してくれないと思っているところにあるのです。いえ、ほかの人が自分を愛してくれないのではありません。自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うからこそ、愛ということを機縁として、人間はひとつの苦悩におちいってゆくのです。愛のみかえりをは、ほかの人間からではなく、神からくるのです。

苦しみの原因は、自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うから

ああ  ここだったんだなと  振り返ってみるとつくづく思います。

多くの人から 思いやりや心尽しといった、愛を受けてきても、それは自分の望んでいる愛ではないと 撥ね付けてきた頑な心、自分の思う通りにならないと気がすまない頑固さ。こうした自らの心の偏りに気がつかずに 、人にこうあって欲しいとのぞむばかりだったような気がします。

この心の傾向は なかなか治らず 人から指摘されても反発してしまうことが多かったように思います。

病の効用などと言っては 語弊があるかもしれませんが、病気をして、しかも回復できるのかわからない辛い状況にになってみてはじめて、自分の生き方の間違いを深く考えるようになってきました。

もちろん、何度も反省の機会は有ったのですが、喉元過ぎれば熱さ忘れるの喩え通り、平常な生活に戻ると安逸な生活 怠惰な心に戻ってしまう。自分の心を  毎日点検したり、悪い傾向を改めようとする意識は薄れていっていったと思います。

与えるとは、どうすればひとりでも多くの人がしあわせに生きられるかを考えながら、日々生きるということです。与えるとは、ひとりでも多くの迷える人々の心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、ひとりでも多くの人々を、困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。

どうすればひとりでも多くの人がしあわせに生きられるか…

こうしたことも、普段頭をよぎること無かったなあ。

知恵を持って与えなさい。物質を与えることだけが、与えることではありません。慈悲魔になることだけがに与えることではないのです。


真に与えるとは、真に人を生かす道であり、真に人を生かすためには、知恵がなければならないのです。

ちょっと 個人的なことから話は大きくなりすぎますけれども、日本から 世界に与える愛とは 何だろうと思うと 日本の技術は世界に貢献した面もありますが、独裁国家を肥太らせてしまった面もあります。与えることに対して 知恵がなかったのかもしれません。



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