霊的世界が現実にあるとしても この世を完全に否定したり 逃避のみを考えてはいけない (色心不二)

心の平安や 宗教的な世界、スピリチュアルなことに惹かれる性格だと この世の生活のことを無視したり 現実から目を背けがちになったりします。

1993年の幸福の科学の月刊誌のなかで
大川隆法総裁は それではいけないのだと説かれています。

それが  書籍 『心の挑戦 』第 6章 に収められています

中道思想の実践           

  4 霊肉の調和


唯物論と 虚無主義

極端な思想として、「人間は肉体や物質だけの世界に住んでおり、自分自身もそこにぞくするものである」という考えがあります。「物質世界こそがすべてである」という唯物論の見解です。
あるいは,「空」の思想や「無」の思想が行きすぎて、宗教的人格ではありながら、この世を捨て去ることのみに汲々として、結局、虚無主義、ニヒリズムに陥って、現世をいっさい否定しているような人もいます。


色心不二(しきしんふに)

霊的なものの見方と物質的なものの見方は、ともに極端な見方であり、私たちが地上に生きている限りは、この両方を完全には捨て去っては、生きていくことはできないのです。その霊肉をよく見据えながら、バランスをとって生きていくことが大事です。

誤っている 色心不二の捉え方

ある禅宗の大家で、鈴木大拙の後継者を自認している方の書物を読んでみますと、この「色心不二」という言葉を、「肉体と心は不二一体であるから、肉体が滅びたら心も滅びるのだ」というように説明しています。要するに、「死んで火葬場で肉体が焼かれたら、心も消えてしまうのだ」というように、この色心不二を 説明しています。
 この方自身は、 この見方が、釈尊が否定した「断見」(死んだら何もかも終わりだという見方)であるということが、どうしてもわからないようです。それは結局において、霊的存在を認めていない、あるいは仏への信仰を持っていない、唯物論的な肉体修行に明け暮れた、哀れな悟りの結果と言うしかありません。

肉体修行が 釈尊の目的とされた悟りにつながるわけではないということだと思います。
万人のできない 肉体行や、荒行などもありますが それは 
釈尊が 得られた 智恵や悟りにつながることはないようです。

この中道思想の実践を
 医療や治療分野にも応用して欲しいと思っています。



現代の医学においては
霊肉二元論が行きすぎた医学も
唯物論の医学も

肉体生命を離れたあとに
意識があり 感覚も残っているという
発想がありません。

人はいずれ死ぬのだからという ことで
脳死臓器移植なども行われますし
反対に 何としても 生命を維持したいと
肉体生命だけの延命も 行われたりします。

あの世での 霊的生命の健康まで考えた
終末期医療になって欲しいと思います


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