原因において自由なる行為

 AがBを殺害したが、Aは重度の酩酊状態でまともな判断能力がないか、著しく程度が低い状態で人を刺し殺した事例を取り上げつつ論じていく。酩酊状態になったのは飽く迄もA自身のせいである。その後で常日頃気に入らないと思っていた人物を刺し殺した場合とする。この場合、刑法39条心神喪失・心神耗弱の要件は満たしているので原則同39条が適用されるが、不可罰や減刑となるのは国民感情では許されず、法益から問題視される。例えば、認知症の人が自分の行動を理解できず窃盗をしてしまった場合は39条の適用は批判されないが、本事例のAは自分の意思で酔っ払っていることが問題となる。判例によると、Aの場合は39条を不適用にし、責任があるとして犯罪を成立させている。
 なぜ39条を適用しないのかというと、判例・通説では原因において自由なる行為の法理を適用するためである。これは、ある違法行為を責任無能力・限定責任能力の状態でなされても、行為者の責任能力ある状態における行為によって自ら招いたものであると言える場合は責任に問えるという法理である。自分から酒を飲んだことで自ら酔っ払っているのでこの法理を適用し有責になる。つまり、最初に飲酒という原因行為があり、その後に重度の酩酊状態により責任能力がなくなり、殺人という違法な実行行為、結果行為がなされている。
 この法理が認められる理論的根拠は対立する二つがある。一つは、間接正犯類似説という反対説であり、内容としては旧通説となる。この説は、原因において自由なる行為は責任無能力状態の自分自身を道具として利用した場合であり、間接正犯と同じようなものなので有責だとしている。限定責任能力の場合は、間接正犯の要件は他人を道具のように一方的に支配・利用することであるが、Aは自分自身を一方的に利用しているわけではなく、責任能力が乏しいから減刑すべきであるとする。また、Aの飲酒という原因行為を実行行為だとする見解であり、実行行為と責任能力の同時存在の原則から全く問題はない。しかし、大きく批判が二つある。まず、実行行為が早すぎるという批判であり、Aが酒を飲んだ時点で殺人の未遂が成立するのはおかしいということである。酒で潰れて殺さない可能性も考えられる。そして、限定責任能力者も危険性があるから減刑はおかしいという批判である。
 したがって、もう一つの根拠となる同時存在修正説という、最終的な意思決定に責任を認める見解が現在の通説となっている。行為と責任の同時存在の原則を修正し、結果行為の時点では完全な責任能力がなかったとしても、原因行為の時点で完全な責任能力があったことを根拠に、その結果について完全な責任を問えるとする見解である。そもそも、責任非難は違法な行為をなす最終的な意思決定に対し向けられる。そこで実行行為たる結果行為が、責任能力ある状態での意思決定の実現過程に他ならないといえるためには、因果関係及び故意の連続が必要である。さらに、自己が心神喪失に陥ることについての故意まで要するかという点で問題があるが、この点については、結果行為が自由な意思決定に基づいてさえいれば不要である。

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