潮風の家

幼少より潮風に育まれた。辺りの浜は全て自分のものだと思っていた。日々疲れ切るまで好きなように海で遊んだ。風のように海へと続く一本道を下って竹林に入り、葉を揺らす。子供は風の子と言うが、本当に風になっていたんじゃないかと今思う。

浜の一帯にはスイバやグミの実、桑の実など口にできるものが豊かに自生していて、お腹が空いている訳でも無いけれど、気まぐれに採っては吸ったり食べたりした。口にできるものがいつも側にあるというのは、大きな安心感がある。祖母が無限に麦茶を沸かし、茶菓子を用意しているのと同じ安心感だ。よく食べる子はよく育ち、よく走る。

潮風に包まれると、風の子だった時の記憶と共に、1匹の猫のことを思い出す。チャドと呼ばれている飼い猫は、海へと下る道の途中にいつも居て、のあのあと優しい日差しを浴びていた。わたしがまだ小さな頃は、飼い猫を外へ自由に出している家が多かったように思う。チャドもその中のひとりだった。チャドはわたしを見つけるとすぐに腹を出して転がった。触っていいよと言っている。わたしはチャドをずっと撫でた。

そうしていると突然チャドが飛び上がって、ぴゅーっとどこかへ行ってしまう。ポカンとしていると30秒ほど後に、大きな犬連れのおじさんが林の方からやってきた。どうやらチャドは姿が見えないうちから、苦手な犬がやってくるのを分かっていたらしかった。
臭いで分かったのだろうか。それとも鋭い聴覚か。人間の感覚を遥かに超えて研ぎ澄まされた野生がその小さな身体に宿っていた。そうして、犬が行ってしまったのが分かると、そそくさと私のもとに戻ってきて転がるのだった。

何でわかるの?チャド。
教えてもらわなくてもわかるんだね。
すごいね。

そういえば私も、スイバやグミの実、桑の実を「口にして良いもの」だと誰に教わったんだっけ。記憶が定かでないが、絶対に家族のうちの誰かに教わったんじゃない。

もしそういう先生が居たとしたら、
本当に自然界なのかもしれない。

風の中に包まれた時、自分が風の子だったことを思い出す。今は同じようには走れない。でもそれでいい。私の代わりに、この世の子どもが走るのだ。

ただそれが嬉しく、愛おしいと思う。


 

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