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Parannoul - After the Magic


「韓国のエンタメコンテンツは日本を超えている」

イギリスの有名なクソダサバンドのフロントマンが某ポッドキャストに出演した際、日本のリベラルすなわちパヨクが「正論!」と擁護するような差別発言が炎上したくだりの話題にもあるように、その否定しようもない事実を物語るかのような存在およびムーブメントこそ、K-POP界の新星NewJeansの世界的なバズりに他ならない。NewJeansはシングルの”Ditto”がビルボードチャートでトップ10入りを果たし、トラウマックやコカ・コーラなど世界的企業のアンバサダーに任命されるなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いとはこの事である。

その”Ditto”のMVに影響を与えた最たる存在としてフィーチャーされた人物こそ、日本の映画監督である岩井俊二に他ならない。何を隠そう、2021年にBandcamp界隈を中心にバズったParannoulの2ndアルバム『To See the Next Part of the Dream』において、岩井俊二監督の映画『リリイ・シュシュのすべて』の登場人物のセリフのサンプリングを筆頭に、『新世紀エヴァンゲリオン』や浅野いにおの漫画『おやすみプンプン』、そしてアニメ『NHKにようこそ!』などの日本のサブカルチャーを象徴する作品に強く影響された同作品は、いわゆる限界オタクの心の歪みが音像として突然変異したような傑作だった。

そのようにして、音楽シーンにおけるメインストリームとアンダーグラウンドの双方を制覇していると言っても過言ではない韓国の音楽シーン。NewJeansのアートディレクターであるミン・ヒジンとParannoul、双方のクリエイターに影響を与えている日本文化および岩井俊二すごい!っつー話はさて置き、それはある意味では、Parannoulの音楽が2022年にNewJeansが登場し、世界市場を圧巻する未来を予見していたということ。事実、NewJeansがシーンに現れた時は独りでに「やっぱParannoulは天才だ」と再確認した。あとこれは超個人的な逸話だけど、”Ditto”のMVを観終えた後に宇多田ヒカルの”Somewhere Near Marseilles ―マルセイユ辺りー”のMVがレコメンドされた偶然も、自分的にはなかなかパンチラインな出来事だった。

そんな、日本のサブカルチャーの影響下にある2ndアルバム『To See the Next Part of the Dream』といえば、NothingやDeafheavenらのモダンなヘヴィゲイズの系譜の上に位置づけられながらも、一方でtoeやMogwaiらに代表される00年代初頭のポスト・ロックを源流とする、それこそ後期ana_themaに肉薄するオルタナ~ポスト・ロックを往来するアート・ロックのフォロワーで、とにかく全ての事柄において俺好みに最適化されたサウンドを展開していた。最も革新的だと思ったのは、韓国社会からケーセッキ(=負け犬チー牛包茎童貞限界オタクニート)と蔑まれてぶっ壊れた心(ローファイぶっ壊れメンタル)のハードコアな反骨心を伴う叫びを、アニメ『NHKにようこそ!』のヒキコモリ主人公の叫び声をサンプリングすることで、厨二病同士シンクロ率100%でParannoulの叫びとして代弁させる手法は、もはやラップを超える本物のパンク精神を感じざるを得なかった。

その前作から約二年ぶりとなる3rdアルバム『After the Magic』は、アンダーグラウンド界の帝王という名の栄光を掴んだ前作のリリース後に彼が見た夢を反映させた作品となっている。チキン屋とロックスターの二択でロックスターになる夢を掴んだ、そんな彼のファンに対する感謝の気持ちも相まって、仄暗い雲の下で佇む彼の歪んだ心のメタファーとしてのノイズも、心のATフィールドをぶっ壊さんとするハードコアな精神性も跡形もなく消え失せている。当然、そこには90年代サブカルの影響およびサンプリングの姿形もなく、とにかくParannoulの音楽におけるアイコニックな要素が、ことごとく彼の周りから消え去っている事に、初めは驚きと動揺を隠せなかった。

少なくとも、前作の根暗シューゲイズのイメージからは一線を画す、オープニングを飾る#1”Polaris”のアコースティクなイントロからThe War On Drugsが始まったかと錯覚する本作品は、VampilliaのReiによるストリングス・アレンジやクラシカルなピアノ、それこそイマ風のオートチューンを駆使した#6”Sketchbook”に象徴されるように(奇しくも宇多田ヒカルの『BADモード』的でもある)、日本のmacaroomとシンクロするアンビエント~ニューエイジ~トリップホップを経由したインディトロニカ風の、ギター中心のロックというよりも電子音楽的な打ち込みを主体とした、某アニメの格言である「陰キャならロックをやれ!」の精神とは対極にある、パリピな陽キャの暖かさに包まれたアートポップを展開している。

Parannoulとともに、ぶっ壊れメンタル三人衆の一角を担う盟友のAsian Glowや新星のDella Zyrなど、韓国のインディシーンで活躍する仲間たちの協力をはじめ、前作のリアル『ぼっち・ざ・ろっく!』状態だった彼に対して特別なシンパシーを感じ、同時に勇気を貰った世界中のファンたちから歌声を募った#4”We Shine at Night”や#5”Parade”の存在からもわかるように(MVもNewJeansの”Ditto”とシンクロしている)、前作では彼の妄想上の存在でしかなかったParannoulのファンから差し伸べられた手を取り、リアルの世界で曲を合作するという「夢」を実現させた彼の多幸感と恍惚感が終始アルバムの世界観を支配している。なんだろう、シューゲイザー界のレジェンドと共演する「夢」を実現させたAlcestのアルバム『Shelter』じゃないけど、同様にこのアルバムには春の終わりの清々しさと一点の曇もない真っ白な光が降り注ぐような、輝かしい未来への希望しかない。特に、女性ボーカルとデュエットした#8”Sound Inside Me, Waves Inside You”は、今現在のParannoulを象徴するような一曲と言える。

しかし、前作を聴いたチーの牛なら誰もが思うはずだ→「何故だ?彼は俺と同じ二次元の住人じゃなかったのか?」と。前作の2ndアルバムに衝撃を受けて、同胞意識と仲間意識が芽生えた俺たチーの牛からすると、なんだか裏切られたような気持ちになる人もいるだろう。でも、決して「そうじゃない」んだよね。

この件に関して自分なりに皮肉っぽく例えるなら、まだ新海誠のアニメがアンダーグラウンド扱いされていた『言の葉の庭』以前の内省的な新海作品が、Parannoulにおける2ndアルバムの位置づけだと仮定すると、大衆向けにメインストリーム化した『君の名は。』以降の新海作品が本作『After the Magic』の位置づけというか、それこそ『新世紀エヴァンゲリオン』で例えるなら、旧劇場版エヴァが2ndアルバムで、新劇場版シン・エヴァが3rdアルバムみたいなイメージは確実にある。

確かに、2ndアルバム『To See the Next Part of the Dream』における彼は、『旧劇場版エヴァ』のラストシーンの碇シンジの如く、支えとなる「手」を拒絶し、自分の殻となる二次元の世界に引きこもっていた。しかし、この『After the Magic』における「仲間たち」と「ファン」というかけがえのない存在との出会いにより掴んだ「感謝」の気持ちと、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストシーンにおける主人公の碇シンジ(Parannoul)とマリ(支援者のファン)が手を取り合って、駅構内の階段を駆け上がり実写すなわちリアルの世界へと飛び立っていくシーンとシンクロさせている事に気づいてしまった瞬間は、「あぁっ!」みたいな声とともに鳥肌が全身を駆け巡った。

決して、彼は90年代サブカルとの決別を宣言しているわけではなかった。むしろ逆に、シン・エヴァ以降に『シン・ウルトラマン』や『シン・仮面ライダー』を手がけた庵野秀明とシンクロ率120%とばかりに、二次元アニメーションの世界から実写映画の世界に一歩踏み出した庵野秀明のクリエイター人生すらも彼はオマージュしているんですね。つまり、シン・エヴァの「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーに対する、ファンからの回答としての「ありがとう、全てのエヴァンゲリオン」の気持ちと、長年キャラクターを演じ続けてきた声優陣をはじめ、庵野秀明を支え続けてきたクリエイター仲間たちへの感謝の気持ち、そして碇シンジや綾波レイらのキャラクター達への「ありがとう」が込められた、それら全てのエヴァ人たちへと捧げる特別な作品という意味でも、本作におけるParannoulと庵野秀明は確信犯と思うほどシンクロし過ぎている。

全てを拒絶した旧劇場版エヴァのシンジくん、および『NHKにようこそ!』の主人公の根暗メンタルとシンクロした、いわゆるぶっ壊れローファイメンタル三人衆のリーダーである彼の歪んだ心のノイズ、その隙間を埋めるようなファンの「手」が優しく彼の心を包み込み、パリパリに砕け散った心のATフィールドが魔法にかけられて一枚一枚丁寧に修復されていく様子を、一人の友人としてそっと見守るような、ある種のヒーリング・ミュージックとして心の平穏を取り戻している。決して、前作と比較して云々みたいな作品ではなくて、いわゆる太極図のように前作と本作は表裏一体なんですね。

「感動的」というとどうしてもチープな表現になってしまうが、良くも悪くもゲストミュージシャンの存在に依存し、地下から地上へと引っ張られている作品であることも事実。しかし、こうなってくると次作のオリジナル・アルバムが全く想像できないし、もしかするとParannoul名義としてはこのアルバムが最後かもしれない。

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