「命に嫌われている」に共鳴した私の内部にあるもの。

※アナログからの手打ちなので、誤字脱字がたくさんあるかもしれませんが、お許しください。さらに日本語でおkのところがちょっとあるかもしれません。

※この論文はシモーヌ・ヴェイユの不幸論を題材とした哲学研究論文です。〈不幸〉など、普段当たり前に意味を捉えている言葉をそのまま当てはめないこと、ネガティブ・ポジティブといった短絡的なカテゴライズをしないこと。物事を多面的に見ること。出来合いの言葉を捨てて、真っさらな頭で読むこと。相対主義の罠に嵌まらないこと。学問的に読む努力をすること。

そこが、ポイントです。それができないと、論文の論点そのものを理解できなくなります。(何にせよ、そこまでアップしないけど。)


0 はじめに

前略(シモーヌ・ヴェイユの紹介と、この論文の中で私がどのようにヴェイユを扱うかの説明。これは、機会があったら別の記事で書くかも。)

 唐突ではあるが、ここで私の個人的な哲学的関心について述べさせて頂く。というのは、本論において、なにゆえ私が日本では比較的馴染みの薄いシモーヌ・ヴェイユを、とりわけ哲学者としてのヴェイユを(←原本ではこの部分を傍点で強調している)、研究対象に選んだのかを説明する必要があると考えたからである。

 私の哲学的出発点は、自己の存在と世界(他者を含む)の認識における曖昧さ、その根拠の無さから生じる実存的不安、ないし、このような曖昧な存在者としてこのような曖昧な世界に投げ出されたことに対する怒り、言い換えれば、このような曖昧で孤独で有限な〈私〉を〈私〉の同意なく存在させ、今もなお現に存在させている〈何ものか〉に対する強烈な憎悪にあった。ゆえに私の当初の哲学的関心は、もっぱら絶対的な自己の存在証明と、世界の認識を確たるものとして保証すること、さらにそこからこの〈私〉がこの世界で存在し続けることに何らかの意味付けをすることにあり、自らの存在と認識と生きる意味を問うというかたちで、同じような問題意識を持つと思われる哲学者たちに自然と惹かれていったのである。しかし、或ることがきっかけで私は、後に詳しく述べることとなるヴェイユが「根源的不幸」と呼んだものと類似のーーと思われるーーものを自らの身をもって体験することになった。そしてそれ以降、私の哲学的関心は一変することとなる。

 根源的不幸の体験以前における私の哲学的関心は、実存的不安(怒り、憎悪、苦悩、孤独、不快、絶望)という、飽くまでも個人的で主観的な問題にあった。しかし、体験以降、私の主観的世界観を超えた、〈私〉によってはもはや自己同一化され得ない他者(への応答=責任)の問題が、私の全身を貫いていったのである。だが、他者の問題が私の中で大きくなったとは言っても、それ以前の実存的不安が消えることはなかった。それどころか他者の問題が私の全身を貫いたように、実存的不安もまた私の全身を今なお駆け巡っている。こうした中で、この二つの問題ーーすなわちこの〈私〉の実存的不安と他者の問題ーーは、私の中で対立し、解消し得ない矛盾となり、私は両者の狭間で心身を引き裂かれそうな感覚に陥ってしまった。そのような状態のときに出逢ったのが、ヴェイユである。私は先ず、彼女の〈不幸〉に関する現実的かつ正確な考察に感嘆した。そして、次にーーこれこそが最も重要なのであるがーーその〈不幸〉に関連する考察の中で展開された「自己の無名化」という思想、および『根をもつこと』で語られた「主体に課せられる絶対的な義務」と「客体に対して飽くまでも相対的に所有することを許されている権利」という、自己と他者(義務と権利)との関係性についての緻密な考察に惹き付けられ、まさにそこにこそ私の中で対立し合ってある二つの問題の狭間にある断絶を埋める解決策が、否、もしくはそれとは全く別の道を示してくれる何かが、在るのではないかという予感を得たのである。


一応、私の中で「命に嫌われている」とシンクロしていると感じた昔大学院時代に書いた論文の内容の導入部分でした。

これ以降は、いくつもの哲学的思想とキリスト教(カトリック)について、専門用語を使って説明しているので、専門用語の知識と宗教学の知識、他の哲学者が書いた哲学書の内容を或る程度把握していること、スペインの内紛闘争、世界恐慌や第一次および第二次世界大戦などの歴史的事実を把握しておく必要があります。もう私自身が頭から知識が飛んでいるのと、長いので書かないでおきます。長文をスマホで手打ちというのがしんどすぎる。しかも意味を訊かれたら答えられそうにない…。

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