ものすごくおもしろくないメタなお話からはじめると
今期は他にもメモを残しておきたい作品があるので、時間を作るのが大変だ。『終末トレインどこへいく?』、『ガールズバンドクライ』のふたつもnoteにもおもしろい感想がある。今日のところは『響け!ユーフォニアム』のメモを少しだけ残しておこう。
メタ視点でオーディション3回制から見てくるもの
ユーフォのソリ争いについて
①黄前ー黄前ー黄前
②黄前ー黄前ー黒江
③黄前ー黒江ー黄前
④黄前ー黒江ー黒江
⑤黒江ー黒江ー黒江
⑥黒江ー黒江ー黄前
⑦黒江ー黄前ー黒江
⑧黒江ー黄前ー黄前
府大会オーディション結果で①~④に絞られる。
3年時に久美子のソリを脅かす存在として、映画で前振りされていたように、登場したのだから、とメタい思考を働かせると①は消える。で、全国大会を黄前久美子がソリと予想すると、③黄前ー黒江ー黄前しか残らなくなる、という予想を府大会オーディション結果発表時にぼくはしてしまったので…関西大会で黒江がソリになったときには予想通りだった。また、部の雰囲気が悪くなるのも、予想通りではなかったけれど、そういうものかな、とは思った。
で、この日記にもすでに書いてあるので、今更、隠し立てすることもないので、当時、思ったことを正直に記すと、③黄前ー黒江ー黄前で、かつ、全国金賞で有終の美を飾ったら、めでたしめでたしとは思えない、というものだった。もう少しはっきり言ってしまうと、3年時に突然、北宇治高校に転校してきて、ユーフォニアムがうまいというだけで、部長である黄前久美子から関西大会オーディションの結果、ソリを奪ったことで、うっすら部内ではぶられ、全国大会オーディションでは久美子に敗れるために登場したとしたら、黒江真由という人間は随分と気の毒な存在に思えた。
が、ぼくが勝手にメタな予想をしていただけなので、…あまりにも直截(ちょくせつ)な物言いは避けた記憶があるが、とはいえ、黒江真由ラスボス説にも文句を言っていたため、そこまでおとなしめなことば遣いではなかったかもしいれないと今になって反省するつもりもない。
くわえて、メタな予想をしてしまったことも反省しない。というか、これは無理だと思う。3回制と明かされた時点で、上記のような予想が半分、ひとりでに立つ。
まあ、この予想は外れることになる!
とはいえ、11話でなんとなく黒江がソリかな?とは思えるに至る構成になっていたが…
ただ、こういうのは物語の解釈ではないと思う。内容に一切、触れずに順列だけで導出できるので…メタなつまらないお話はここまで。
黒江真由という人物について
最後までよくわからなかったので、これは継続して考えてみようと思う。
ツイッターなんかでも、あまり、これといった核心に迫るような解釈は見かけなかった。
・黒江真由の「リズと青い鳥」解釈、黄前久美子=リズ説
・写真に被写体として写ろうとしない
・合奏が好き、コンクール、ソリには興味なし
この辺は重要であると今でも思っているが、…この日記にすでに書いたことであり、めんどうなので、繰り返さない。
あと、最後までトリックスター的側面を担った存在でもあった。
・黄前久美子に敗北というものを教えた存在
・北宇治高校吹奏楽部の実力主義の試金石
・視聴者に吉川優子の思いを追体験させる存在、いわゆる、「デカリボン」化現象
3期の重要人物は、3期を黄前久美子が教師を目指す過程を描いた物語と解釈するなら、黒江真由と滝昇ということになると思う。高坂麗奈ではないというのがかなり大事なポイントになると思う。
敗北を知った黄前は音楽において特別になることをあきらめるが、この敗北は吹奏楽部顧問になるなら、良い経験にもできるはずだ。
また、北宇治高校吹奏楽部の実力主義について久美子は自身の敗北を通して身をもって学んだということになる。最終回のラストシーンで久美子は北宇治高校に帰ってきたようだが、今の北宇治が実力主義でやっているのかはよくわからない。とはいえ、北宇治の実力主義についていえば、歴代の敗者たちの思いによって裏付けられていたと考えたほうがよく、ことさらに久美子の献身を強調するまでもないことのように思われる。3期においても、鈴木さつき、加藤葉月、釜屋つばめのことばに感動した。鈴木さつきはことばというよりも態度だが。
黒江真由についてはひとまずここまでにしておく。
滝昇と黄前久美子
この二人の会話のシーンはかなり重要だった。
回を重ねるごとに内容は濃密になっていく。「石を積む→人を積む」のあたりで、黄前久美子は教師なるのかと予想したけど、ツイッター、日記でこの予想を書くことは控えた。しかし、今にして思えば、ネタバレではないし、メタな方法でたてた予想でもないから書いてもよかったのかもしれない。
3期は黄前久美子、滝昇、黒江真由が物語の中心にいたということだ。
最終回で気になった点
もぶっこ部員を含めた紹介について
もぶっこにも顔と名前があるということだろう。これはすごいと思う。北宇治の実力主義とはなにか?と問うたら、つまりはそのことであり、それを部員紹介という形式で京アニは示したと理解したい。この演出はちょっとメタな理解が必要な箇所かもしれない?正直、3期最終回では演奏シーンの有無よりも部員紹介に時間を割いたことが重要であったのでは?と思う。
演奏中の回想シーンはだれのいつの回想か?
「だれ」と「いつ」、このふたつの問いがあると思う。
だれは黄前久美子という理解が可能だ。いつは演奏中とも、時が流れ後に
、とも理解可能だろう。モノローグの時に示したように黄前久美子がたとえば、教師になってから3年時の演奏を振り返った時、同時に、高校生活も合わせえ思い出したというような見方もできなくない気はするが、少々、無理があるかもしれない。モノローグのほうが回顧として理解しやすい。
が、これもメタな理解として、アニメ制作者が京アニについて回顧したという見方も可能だろう。が、この解釈をとると作品全体の理解もかなり変更する必要が出てくると思われる。
原作からの内容変更について
原作をぼくが読まない限り、この点に触れることはないと思う。一般論を述べても仕方ないから。この問題について、神経質にならざるをえないと思う人がいるのはわかるのだけど、…
本作とは何の関係もない話だが、日本テレビの問題で世間が騒がしかったころ、作品の根幹を揺るがすような改変はやっていけないという論調が大勢を占めていたのはおかしかったと思う。押井守さんの『ビューティフル・ドリーマー』もやり玉にあがっていたけど、批判的な本歌取りというものはあってよいはずだ。しかし、このご時世、ある論調が主流になるともう、どうにもならん。くわえて、改変擁護論でも、押井守さんは「原作クラッシャー」筆頭のように崇められていて。これにも違和感しかなかった。なんか、テキトーなことを言う人が多すぎるのはどうしようもないと思われる。ぼくはネット言論については、一度、加熱しちゃうとどうにもならない、とあきらめている!
本作への違和感があるという人について
ひとさまに助言はできないので自分の問題として書くと、そういう違和感はきっと作品理解に役に立つ。ぼくも本作についてメモを残そうと思ったのも、違和感があったからだ。黒江真由という人物は多くの視聴者に違和感を与えた。それだけ、批評性を有していたということでもある。が、これも過去の日記に繰り返しになるので端折る。
ちなみに『終末トレインどこへいく?』の中富葉香という人物についても、そのしゃべり方に違和感があったので、そこが本作の理解を深めるきっかけになったと勝手に思っている。というか、解釈というものは勝手に思ってみるしかないものだが。
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