春アニメ メモ ネタバレあり。

 今日も帰ってきて、一休みして日記でも書いておこうか、と思うとすでにこの時間である。帰りには雨が上がって、涼しかったのでそれだけはよかったが…すでにかなり眠い。睡眠の次の次くらいに?風呂が好きなので、そのさらに次の次くらいに好きなカルピスを飲んでから寝るとしよう。健康志向になって腸活を始めたわけでなく、実は、幼い頃からカルピスが好きであったのだ。近所のおばあさんにご馳走になったカルピスの味は今でもたまに思い出す。それまでカルピスウォーターしか飲んだことがなかったので、こんな濃い味をしたカルピスがあるのかと驚いたから記憶に残っているのだろう。ご馳走になりになり過ぎて、おなかを壊したか、どうかまでは憶えていない。

 『ガールズバンドクライ』
 井芹仁菜が大人しくなって寂しいという感想を見かけたが、ぼくも同じで、たしかに寂しい。でも、これはそうなってよかったという気がする。たぶん、この点では2話が転機であったと思う。すばるのことばである「めんどくせー」がなければ、今の井芹仁菜はいなかったとすら思えるのだ。そこには河原木桃香もいたが、このふたりがめんどくせー女の子を目の前にして大笑いしてくれた。こんなに素晴らしいことはめったに起きない気がする。
 というか、これはいつであったか…永井均さんがツイッターで小説について述べられていたことで、正確な文言は忘れてしまったのだが…現実では小説ほどにはなにも起きないというお話をされていて、ぼくは文学好きなのだけど、かなり納得してしまった。この指摘はできれば、聞こえないフリをしたくなる。実際、小説に限らず、アニメでも、なにかが起きすぎている。この世界に生息する井芹仁菜のような人のうち何人が彼女のようにその醜態を笑ってくれる人に出会えるのか?『ガールズバンドクライ』という作品に対する批判ではなく、この指摘はほぼどんな作品にも当てはまる。当てはまるので、聞こえないフリをしたくなるけど、そうもいかんだろうと思うが…
 困ったので、今日のところは先に進もう。
 ついでにもうひとつ柳田國男による文学批判を紹介しておくと、本当に悲惨なお話は小説にはならないみたいなのがあったはずで、これは田山花袋への批判であったと思う。これもまたその通りだと思う。
 こっちについても反論とか無理な気がするので先に進もう。
 ということで、すばるがじつはすごいということをメモに残しておこうと思ったのだ。

 このお話はあとで書くことに微妙に関連するかも。ようは、「作劇の都合」問題であると思うので。作劇の都合問題だと、結末の問題もあるけど…こっちがおもしろいのは未完のものであっても、続きが書かれない限りにおいて、その未完の終わりが結末な気がしてくる問題というのもあるとはおもうのだけど…話が飛びすぎ。

 『終末トレインどこへいく?』
 6話以降のメモを残そうと思ったが、その作業が9話で止まっている。
 もう一度、確かめてみるけど、回想シーンについては7話までなのか?6話かも?
 スーちゃんTシャツは7話でも活躍していて、先頭車両ではためいていた。
 あと、7話で思ったのは静留は時々、鋭くなる。勘みたいなものが鋭いのか?本当は賢いのか?黒木さんを人間と見破ったあたりから、そういう気がしないでもないというほどのことではないのかもしれない。
 各駅でなにが起きているのかを正確に理解することは困難をきわめるので、そこはぼちぼち誤魔化しながらみてきたのだけど、絵作りとしてよいなという場面と会話がやっぱおもしろいと思う。印象的場面は大体、どちらか。回想シーンでも、あの橋上の喧嘩だけではなく、他にもよい場面はたくさんあって、どのシーンも会話もおもしろい。
 変顔シーンをひとつあげるなら、7話の三人を見つけた静留が口笛吹くところが今のところ一番好きかもしれない。
 真顔シーンならエロ歌を熱唱している晶、静留の場面も捨てがたいけど、撫子の真顔がすきかも。
 それでも、退屈そうにしているポチさんのシーンが一番好きかもしれないと思いながら、総集編を見ていたけど。
 他にも好きなところを挙げるなら、すごく大げさな目標がないところがこの作品の良さと思う。謝りにいくというのが第一目標で、世界を元に戻すが二の次という点が魅力と思う。

 最終回で気になっていること
 葉香と静留が神社でなにを祈ったのか?できれば、知りたいような、そうでもないような。
 7G世界のほうが好きという人がポチさん(人間)以外にいるのか?
 葉香の記憶は戻るのか?これはどうなのだろう?
 ポンタローが葉香がいる限り、池袋は安泰みたいなことを言っていたが(11話、逃げる車中)、どういうことなのか?葉香の記憶が引っこ抜かれて、それで7G世界で記憶が実現化しているなら、彼女の記憶が戻ると世界が消えるみたいなことになるのか。

 社会批評性について
 これはけっこうあると思う。
 主体性のないゾンビ、ウライズミン、小さな人々とか。でも、ありがちな大衆批判ではない。というか、ぼくは作品に社会批評性を見るのが苦手なので、こういうのはだれかにお任せする。
 あと、ポンタローのキャラ造形はインフルエンサーを意識して作られている気がする。インフルエンサー兼政治家みたいな人とかも実際、いるし、ぼくから見るとそういう人たちと重なって見える。あとはニュースショーとか、情報番組とかのコメンテーターでSNSで世迷言(よまいごと)を書いている人たちみたいな感じでもあると思うが、これはぼくの偏見であるかもしれない。偏見だろう。だって、テレビのニュースショーとか、情報番組をここ10年以上?もっと?見てないし?
 ということで、このへんの理解をつめるのはだれかにお任せする。

 『響け!ユーフォニアム』
 なんとツイッターを見ているとぼこぼこ原作既読組からの情報が流れてくるのである。でも、けっこうなかにはおもしろい情報もあったりする。久美子の演説は原作だと全国大会前だったらしい。原作については読んでいないので、言及は避けるが、アニメにおける構成についてはぼくは違和感がない。あのタイミングで久美子が渾身の檄を飛ばすという流れに不自然なものを感じなかった。
 あと、黒江真由の「辞退しようか?」について、その発言回数は原作のほうが多いという説と少ないという説を見かけた。ということは大体、同じくらいということなのか?というか、このしつこさはアニメオリジナル展開ではないのか…と。原作はどうやって終わったのか?
 もしかしたら、原作のネタバレ気にしなくてもいいのかも?結末が変わる可能性もありそうだし。

 11話について
 久美子だけではなく、奏までも自分の過去を真由に見出していた。
 過去の大嫌いな自分、黒歴史的なことなので、自己嫌悪しているということなのだろう。久美子も、奏も黒江真由とはあまり似ていないようにぼくからは見えるが、自己嫌悪しているところだけは同じと思う。自己嫌悪に至る道もそれぞれ異なるので、特に3人まとめてなにかをきっかけに一斉に治るみたいことは起きないと思うけど。
 
 黒江真由がいうところの「自分というものがない」について
 ふたつの意味が重なっていると思う。
 ひとつは「主体性がない」という意味で、こっちだとごくありふれた普通で凡庸な悩みに思える。
 もうひとつは「この世界には自分という存在がいない」という意味で、自分は絶対に被写体にはならないし、なれないというもの。このような悩みが一般的であるかはわからない。が、自分がこの世界の登場人物の一員にはなれないという疑問はぼくにもある。で、彼女の場合は、吹奏楽部で合奏している間だけは、この世界の一員でいられると思っていそう。音が重なる一体感が彼女を世界に位置づけるみたいな感じ。
 このふたつがいろいろと彼女の頭の中では混ざっている、みたいな理解をしてみようと思う。

 「たかが部活なんだし」は原作にもあることばなのか。これはいまだに謎とは言えるけど…ソリをあっさり他者にゆずれる人なので、たかが部活なんだし、そんなにムキになることもなく、音を楽しもうよみたいなことなのだろうか。

 寝る。

 寝る前に書かなければいけないことがあった。
 黒江真由のしつこさにはさすがにそうとは見ないようにしていても、作劇上の都合を感じる。ここまでくるとそう見ないようにしていたけど、舞台装置に見えてくる。というこの感想が覆るような展開に期待したい。

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