夏アニメのメモなど

 暑い。

 『ばいばい、アース』
 転生しないほうの?異世界もので、大雑把にいうと孤独、疎外感というのがテーマであり、この点では『PSYCHO-PASS』にも共通するし、『蒼穹のファフナー』にもその要素があるが、3話まで見た感じだと、それらと違って、『ばいばい、アース』はそれがメインテーマでありそうと思う。
 ノマドの呪いとは何か?師匠であるシアンもまたベルと同じようにあの世界のあり方によって?か?、疎外されたものということなのだろうか。

 『天穂のサクナヒメ』
 田植え唄についてちょっと調べてみようと思った。

 『かつて魔法少女は悪と敵対していた。』
 dアニメでみているのだが、唐突にといほどのことではないが、急に悶デレ会議というものが始まる。魔法少女と悪の幹部の悲恋?なのか?シンデレラストーリーか?魔法少女にまとわりついているヒモ男的なのが悪の幹部によって成敗された。今のところ、ものすごくつまらなくなければ、ものすごくおもしろいわけでもないけど、なんとなく見続けることができている。とえらそーなことを書いたが、たぶん、ぼくは肝心なところがわかっていないということにそれはよるのだろう。
 いったん、魔法少女であることを忘れるとわりと貧しい女であり、こっちも、いったん、悪の幹部であることを忘れるとお金持ちの男であり、それぞれにその属性が加わると何が変わるのか?これがぼくにはよくわからない。すぐに、これは悲恋になるしかあるまいなどと思えてくるが…?
 若干、『ロシデレ』にかぶる設定だが、男性側が本当の在り様を女性に開示しないままにお話が運ばれていく。『まほあく』はそれがギャグ化になっている。と言いたくなるけど、この作品のギャグの要は貧しい女の子の生活なような気もする。自分の置かれた環境のつらさをギャグ化するという場合、自分とはだれのことか?作品内キャラ、作者、視聴者。ギャグ化したときに笑うのかはだれか?以下同文。

 『小市民シリーズ』
 小鳩の推理はその真実が解き明かされないところが重要なのではないか?つまり、彼が本当に楽しんでいることは謎を解き明かすところにはない。ただ、その謎を解くべく思考を働かせている過程のみを楽しんでいると見える。たぶん、真実が不要な限りにおいて、小鳩の推理は妄想と変わらないのだ。であるから、中学の同級生に小鳩はキモイと思われたのだろう。と言いたくなるが、3話で小鳩が彼の中学時代について語る場面、そこで印象的なのは小鳩のしゃべりがどこか芝居がかっているところにある。ちょっと大げさな感じでしゃべっているので、中学時代に嫌われていたという彼の述懐は間違ってはいないのだろうけれど、それで彼は傷つき「小市民」たる道を選んだと考えるのは早計というものだ。堂島健吾が頭の足りていない、ただのバカタレに見えないのは、意外とこの辺の事情を察して、今の小鳩と付き合っているように思えるのからだ。堂島は小鳩の「小市民」演技に付き合っていると見るべきと思われる。とすると、としないくても?どっち?というのはひとまずごまかしてお話を先に進めると、やはり、小鳩の中学時代エピソードの語りもまあた演技性を孕んでいると理解してみたい。
 もうひとり、小鳩の「小市民」演技に付き合っているのが小佐内だ。彼女はまた彼女自身も「小市民」を演じている。これはつまり、よく中学とか、高校の時にやるCIAごっこということだ。ぼくも登下校の電車内でよくそういう遊びをした。ふたりでCIAに追われている遊びをするのだ。二両先の車内でこちらの様子をうかがっているなぞの人物がいるみたいなテキトーな会話からそれは始まる。たぶん、小鳩と小佐内の「小市民」ごっこもこれに類する遊びということに違いない。いわば、ふたりで世界をつくっているわけだ。とくにこのお話にオチはない。たぶん、この作品でも「小市民」であることについてなんらかのオチが最後に用意してあるわけではない気がする。こういう遊びに終わりが来るのは単にというか、強制的にその遊びに終わりがくるからだ。みんな卒業するのだ。あの遊びを卒業するというよりも、高校を卒業するのだ。
 要するに、この作品は小鳩と小佐内の「小市民」演技を楽しめばいいのではないか?小鳩の「知恵働き」(推理)や小佐内のスイーツへの偏愛は「小市民」的行動からの逸脱ではあろうけれど、それらが彼の、または、彼女の本来の姿なのではなく、その逸脱行為すらも(「小市民」)演技からの逸脱の演技とみることで…なにがぼくに見えてくるのか?今のところ、よくわからない。
 小佐内による復讐も多分に演技である可能性が高い。怒っている演技なのだ。
 さて、今日のぼくの「知恵働き」はこんなところで終わりにしよう。(←はオチではないですよ。次の夏アニメのメモに移らないと買い物に出かけれないので、強引に流れをぶった切ってやったのである。演技でもないのだ。縁起でもないのだ?)


 『ATRI -My Dear Moments-』
 恋愛ノベルゲー原作アニメというのは初挑戦かもしれないと思ったが、『シュタゲ』も観ているので全然、そうではなかった。で、ぼくはこの種のジャンルがけっこう好きなのかも?見ていて、おもしろい。ギャグ部分も嫌いじゃない。あの作品世界はたぶん、終末の世界ということなのだろう。

 『下の階には澪がいる』
 笑いをこらえるのに必死になりすぎて、むしろ、かなり頭を固くして見ている。ので、疲れる。でも、おもしろいから見ている。

 『先輩はおとこのこ』
 よくわからんけど見ている。ギャグはまったく笑えないというか、ギャグでやっているのかもわからない。かわいいものが好きな男の子というのは昔からいた。たしかに教室内では浮いた存在であるかも?

 『戦国妖狐』
 千夜が人間になる物語ということで、一部と二部が対比になっているというのはほぼ確定的になったが、この対比がなにを語りうるのかをぼくは考えてみたい。
 ただ、千夜の場合、迅火とは事情が異なる。迅火はたまという化け物の傍に居たくて、自らも化け物になろうとして、精神を食い尽くされた。対する千夜は月湖の傍に居たくてというのは今のころはない。その発端にが異なる。千夜の場合、彼が彼自身の力の強大さというか、呪いのようなものが人々に厄災をもたらすのを危惧している。

 『異世界スーサイドスクワット』
 DCコミックキャラを全く知らないせいもあるのか?さっぱりわからん。異世界侵略の予定がすでに先遣隊が独立愚連隊化して、異世界を侵攻しており、三つ巴の戦いになっていくのか?居眠りしながら見ている。

 『真夜中ぱんチ』
 吸血鬼というのは暗喩なのか?
 日の目を見てこなかった人々がyoutubeという文明の利器によって脚光を浴びるみたいなお話ではないだろう。しかし、なんと言うか、この種のお話はぼくよりも10くらい若い人にはけっこう深刻なお話でもあるのだろう。でも、編集作業とか、企画会議とか楽しいのだろうと思う。ぼくはあまり若い人がやっているyoutubeは見ないのだけど、ただの悪ふざけみたいなものを小バカにするのはやめようと思った。とはいえ、テレビ番組っぽい感じのyoutubeとか本当に見る気が起きない。とくにニュースっぽい雰囲気の?たまにツイッターにその切り抜きが流れてくるので見るのだけど、時事ネタyoutubeみたいなのは総じてつまらないという印象を持っている。でも、たぶん、見ている人は雑談の鑑賞をしているのだとしたら、それはなんとなくわかる気がする。世の中には寂しいがあふれているのだろう。ぼくはそんなときはボケーと本を読んだり、ただ、ボケーとしたりするが。脱線した。

 『三体』がおもしろいと評判のようだ。が、『水滸伝』もそれに負けないくらいにおもしろいと思う。こども版『すいこでん』からぼくの小説好きは始まっている。宮沢賢治ではないのだ。
 史書と歴史小説といえば、『三国志』と『三国志演義』がまずぼくは思い浮かぶ。司馬遼太郎というか、司馬史観への疑義というのも史書ではないという疑問から始まっているのか?

 『三体』がおもしろいという人に『PSYCHO-PASS』をおすすめしていいのか?SFといっても別物な気もする。
 2期の色相判定の問題。自分は何色か?というのは自分では判別できないという理解ができると思う。というか、哲学のことはよくわからないが、他我問題と自我問題の違い。
 ぼくがAさん、Bさん、Cさんの違いを判別できるのとぼくが赤、青、黄の違いを判別できることと自分の色を識別できないことの違い。自分の色についてだけはそもそもあり方が違う。しいて自分で言うなら無色。AさんとBさんの違いのあり方とAさんとぼくの違いのあり方の違い。
 鹿矛囲桐斗の悩みもこのように見れるのか?という問題。たぶん、吉本隆明の「原生的疎外」もそういうものとして理解できるのかも。でも、こういう見方をとるとたぶん、物語性を失う。①「疎外」と②「疎外感」、「孤独感」の違い。『PSYCHO-PASS』は②を描こうとしている。が、そう言い切れるのか?
 ①の視点に立つと、桐斗の人工的につくられた身体的特徴、シビュラシステムに認識されない身体という特徴の特異性がなくても、彼はそもそも疎外されていると言いうるので、彼の疎外感は仮構されたものという色彩を帯び、それに彼の身体の特異性が拍車をかけるという見方になるような気がする。
 物語のおもしろさはやっぱないか…でも、じゃあ、どうして、どこに視聴者は魅かれるのか?という点を考慮すると事情が変わる気がする。なぜ視聴者は桐斗の疎外感を理解可能なのか?というのは視聴者もまた疎外感というものを抱えているから…で、その疎外感の淵源は?と辿ると…ぼくの頭がパンクする。

 もうひとつメモ。シビュラシステムを「国家意思」と見なすと「天皇機関説」みたいなお話にも思えてくるというもの…とでも書くと右翼に不敬と言われるか?言われても、そういうふうに少し思ったので、不敬なのだとするとそうなのだろう。シビュラシステムというのは疑似立憲君主制なのではないか?という疑問。というか、「デジタル民主主義」も?天皇を機関化。免罪体質者の機関化。
 不敬というのは機関化だけではなく、免罪体質者と天皇を同一視するとはなにごとか!と言われそうな気もするので?敵(ではないが、…)塩を送る的な行為になるのか?
 まあ、でも、シビュラシステムを「国家意思」と見なすような評論はネットを探せばぼこぼこ出てくるような気がする。

 もうふたつくらい、本作に関するメモがあったはずだが、机上からそのメモが消えている。昨日、掃除したので、捨てたのだろう。ひとつは、AIとシビュラシステムに関する疑問だったか。法とAI、法とシビュラシステムの関係。常森朱がいうところの「法がシビュラシステムも守る」ということ。流動的なシビュラシステムに対して安定的な法が優位に立っていないと、シビュラシステムの内実が世間に公開された際、世間はその真相に耐えきれず、集団狂気に陥り、システムを破壊する恐れがある。AI時代も、AIというよりもLLMは貪婪に学習するため、そのような危険性がある気がする。というか、もうすでにAIは人間を超えているのかも?だけど…いずれにしろ、法の安定性なしにはAI時代を混乱することなく生き抜くことは不可能と思える。解釈改憲体質は変えたほうがいい気がする。もう、よくわからないので、日本批判に転嫁してみた。テキトーなのである。
 もうひとつは忘れた。↑を書いているうちに忘れた。

 


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