夏アニメもいよいよ佳境に入り、温水がいつカメラに気づいたかについて見定める必要があるとなどと思っているうちに

 ただ思っているだけで、この時間になってしまったのである。この間、風呂等々の野暮用を除けば何もしていない。だらっと涼みながら、ゴロゴロしていたら、1時に差し掛かっているではないか。つまり、ぬっくんがいつからカメラで盗撮?されているのかに気づいたかを確認する作業は明日以降に持ち越されたかっこうとなる。

 なので、今日は大雑把に9話に関する感想を残しておこうと思う。
 ぬっくんのそゆとこ問題は詰め切れていないので、後回しにする。

 小鞠について
 8・9話は小鞠という女の子がどういう女の子であるかについて語られた。ひとことで評すことを許されるのであれば、「バカ女」ということばがふさわしいだろう。彼女のおバカさとはなにか?
 これはひとことでは済みそうにないし、また、核心に迫れてもいないので、思いつくままに書き残すと…彼女もまた(他作品の登場人物である小佐内と同じように)ことばで世界をつくり、ことばで世界を壊すタイプのおバカであった。学校に居心地よいのよい場所などない彼女にとって唯一の楽しい居場所である文芸部を賭けて、小鞠は部長への愛の告白を口にする、つまり、ことばにして相手に伝えた。繰り返すが、これは賭けである。うまくいけば、そこから別な二人の世界が始まるし、うなくいかなければ、唯一の居場所が失われるかもしれなかった。八奈見もおバカだけど、小鞠も立派におバカをしている。
 そんな力はどこから湧いてくるのか?
 それはわからないので、次の論点に進もう。
 見事に負けヒロインになった彼女の部長見習いとしての奮闘、執筆を八奈見は「ラブレター」に結実したと解し、温水はこれまでの彼女の高校生活のすべてを詰め込んだなんだろ?集大成(途中経過)?よくわからんけど、そういうものとして解したようだ。どちらの見方も素晴らしいと思う。ラブレターだとしたら、だれに向けて書いたのか?過去の小鞠だろうか?八奈見のおバカに「も」文学が宿っているような気がしてきた。
 が、八奈見も小鞠も大文豪にならずともよい。ことばで世界をつくったり、壊したりするのはなにも文学作品に結実しなくもよいわけで、ぼくは最近、ますます日常の会話がおもしろいと思えてきている。むろん、会話も完成度を考慮に入れると芸の域に達するのは難しいという点は、文芸に同じとは思うが、…なにかノリと勢いでは乗り越えられない壁に文章上、今ぶつかっている。
 この続きはまた今度にしよう。

 別の論点
 ことばで世界をつくるとか、壊すとか
 わかった。というか、どう考えてもいろいろしっくりこないので、いろいろ試しては違うとなっているだけだが、ことばがどこかで(どこよ?って話だが…)独り歩きを始めるのだと思う。
 で、たぶん、独り歩きを始めたことばが相手に届き、その解釈が相手に委ねれるから壊れるという「だけ」ではないと思える。ことばが勝手に独り歩きを始めて世界を壊してしまうこともある。わからん。

 ほうじ茶飲んで、寝る。

 ※ことばで世界をつくろうとする、こわそうとする
 のほうがいいか。
 壊そうとはだれもしてないのだとすると
 つくると壊すは同じことして考えてみると何をしていることになるのか?
 



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