夏アニメ メモ 最終回を見た マリスはかなり重要人物であったと後から気づく。

 『蒼穹のファフナー』シリーズが完結した。
 昨日は深夜に見たので日記にメモを残す時間が取れなかった。それが幸いし、少し間を置くことで多少は冷静に理解できるところがあったと思いたい。

 3期の物語してのクライマックスは11話であったと思う。12話は3期の最終話というだけではなく、シリーズ全体の締めの役割も担っていたということだろう。シリーズ全体の締めになっていた傍証としては、例えば、多くの人が関心を寄せていたであろう一騎と真矢と総士の三角関係にも決着がついた。一騎は真矢に振られたという理解でいいだろうか。あそこで一騎が引き下がってどうすると思った、あるいは、怒りに震えた?人は多そうだけれど、3期の一騎を見るに、ここ一番で相手の望むこととは別な行動をとってしまうのが彼なのでは?という気がする。二代目に総士にぶっ飛ばされた直後に出てきたことばが「俺を同化しろ」なのだぞ。二代目総士がなにに怒っているのか?一騎のどこに怒っているのか?なぜ自分(一騎のこと)がぶっ飛ばされたのか?、それらすべてを理解していないのが真壁一騎なのだ。真矢のすごいところはそういう彼であるとして理解したうえでなお、一騎の言動を予測し、12話で言いかけたことばを飲み込んだことだろう。彼女が何を言いかけたのかはまた、今度、考えたい。眠いのだ。

 ぼくの予想が大きく外れた点はマリスを噛ませ犬と思っていたことだ。これは完全に誤りだった。初代総士×一騎×真矢の三人ではたどり着けないところに二代目総士×美羽×マリスが行けたのはマリスによるところが大きい。二代目総士が竜宮島の人々に的確なツッコミを入れ、美羽の自己犠牲が回避できたのは、どう見てもマリスの総士誘拐から始まっている。過ちからスタートしているのか。竜宮島の人々とマリスの共通点はマリス自身が自分の行いを悪と自覚している点にあるかもだ。島の人々も自分たちで自己犠牲を肯定してきたわけではないだろう。他にやり様がないという固定観念に囚われていたようには見えたけれども…。
 やっぱ、竜宮島の人々の自己犠牲精神が否定された物語として3期を解釈するのはちと違う気がする。形式的にはそのように見えたとしても、大事な点は過ちを一度、通過しないとたどり着けない場所があるということとぼくは考えたい。
 また、二代目総士も一騎世代と同じと思うのは、彼ら自身は自分たちの行いを正しいとは思っていないのでは?よくわからんけど、とにかく、だれかがそれをしなければならない、間違ったことでもやるんだというのは共通していると思う。同胞の犠牲の後に、たまたま、平和が来たら彼らの犠牲は後から「祝福」(これは非常に一騎的意味での「祝福」)されうるという構造
と同型な気がする。ぼくは作者はこの辺の事情はかなり作りこんでいると思っている。もうちょい正確な読みができそうな気がする。

 ①自分たちがそれをやっているときは何をやっているかがわからないが、後でその意味を理解しうる。
 ②過ちを通過して、どこかにたどり着く。
 ①と②が同型。過ちが過ちであると気づけるのはどこかに辿りつけたときだけ?
 わからん。

 マリスのついては12話のセリフもよかった。彼は最後まで美羽を犠牲にしようとした竜宮島の人を許さなかった。それでいいと思う。彼は許したくないのだろうから。無論、千鶴さんを、多くの島の人々を殺しておきながらなんてひでーことを言うんだと感想をもった人もたくさんいるだろう。その感想も、それでいいと思う。ただ、多くの反感が予想されるセリフを残した作者の判断にぼくは敬意をもつ。ここで、マリスが自分の行いを悔やみ、懺悔でもしていたら、ぼくはマリスという人物を見逃していたと思う。この問題はもっと考えてみたい。
 とにかく、マリスという人物に11話以降、関心をもった。

 3期は新国連人類軍の影が薄かったので失念していたが、交戦規定αはどうなったのだろう?現実の国連では敵国条項というものがある。新国連人類軍はいつでも竜宮島を消し炭にできる根拠は維持しているのだろうか?2期を見直さないとダメか。2期時点でどうなっていたか?

 

 


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