「カカシの魔道書」本編

 地下を歩く音。軍靴に合わせ、立派な刀剣と胸元に垂れ下がった指輪が揺れる。
 突き当たりで、甲冑を着た兵士二人が歩く男に敬礼した。
「クラウス殿。お疲れ様です」
「楽にしてくれ。俺は君たちと同じ兵士だ」
 廊下を歩いてきた男――クラウスは気まずそうに黒髪の頭を掻く。兵士達は言われた通り姿勢を楽にするが、羨望の眼差しは解かない。
「明日の教練、楽しみにしてます」
「参ったな」
 兵士から鍵を受け取り、クラウスは門を潜って地下牢へと進む。その途中、声がかかった。
「王国を救った英雄は人気者だね」
 少し広めに作られた牢屋。鉄格子の向こう側にあるのは、どこかの洋館からそのまま運ばれてきたかのような書斎だった。
 歯抜けになった本棚の前、古めかしい机の上で子供が一人、羽ペンを走らせる。
 金の短髪に、目玉が落ちても受け止められそうな大きなメガネ。表情は疲れ果てているが、彼(もしくは彼女)に元気があれば誰もが美しいと思うだろう。
「どうやら名乗る必要はないようだ。君がアンソニーだね」
 鍵を開けて書斎に踏み込みながらクラウスは問う。
「アニーでいいよ」
 アニーは立ち上がり、本棚に近づいた。服装は簡素なシャツに地味なタイ。チェック柄の赤いズボンだけが、相応の雰囲気を守っていた。
「僕もあなたもお互いのことを知っている。いや、人から聞いて知ったつもりになっている」
 アニーは棚から抜き取った本を開く。クラウスは戦地で培った反射により、剣の柄に触れた。
「何を!?」
「あなたの実力、僕に見せて?」
 アニーの開いた本から黒い液が溢れ出し、泥で編まれた人形が三体立ち上がる。
 不気味な人形達はクラウスを包囲しようと侵攻した。
「触れたら呪われるよ!」
 人形をけしかけた張本人が警告する。
 剣一本ではよほど上手くやらない限り対処しきれない状況。
 だが、英雄には奥の手があった。
 人形達は一瞬でクラウスを見失う。
 広めに作られた書斎は天井も高い。その地形を利用して、クラウスはその場で高く羽ばたいた。
 そんな人外の挙動を可能にしているのは、背から生えた赤い翼。天使と例えるにはあまりにも攻撃的な形をしていて、かといって悪魔と呼べる程禍々しくもない。
 アニーが嬉しそうに言った。
「凄い。それが竜の翼なんだ」
 クラウスは急降下して、右往左往する人形達に剣を振った。大した音も立てずに状況を鎮める。表の兵士が騒動に気づくこともない。
「乱暴な挨拶だな。しかも、君は嘘をついただろう?」
 着地したクラウスは溶ける泥に触れた。しかし、彼の身体に変化はない。触れたら呪われるという警告こそ、アニーの仕掛けた嘘だった。
「優れた戦士はそんなことも分かってしまうんだね」
「呪いは嫌という程見てきたからな。それより一体何のつもりだ?」
 アニーはクラウスの背を指差す。
「師匠が作った『グリモワール』と呼ばれる究極の魔道書の力をこの目で確かめたかったんだよ」
「だからって人形に襲わせるなんて、やり過ぎなんじゃないのか?」
「あの人形に呪いは付与されていないし、大した攻撃力もない。価値のない魔道書だからこそ、ここに残っていたのさ」
 アニーの言葉を聞き、クラウスは書斎の本棚に視線を送る。歯抜けの理由は国による簒奪だった。
 クラウスはため息をつきながら剣を鞘に収める。
「密告しないの?」
「戯れだったということにしておく」
「失礼だな。会話だよ?」
「どこがだ!」
 クラウスが抗議すると同時、アニーは放置されていた木椅子を差し出した。毒気を抜かれてしまったクラウスは礼の言葉を呟いて、大人しく椅子に腰掛ける。
「これからよろしく。クラウスさん」
 笑顔と共に、アニーが片手を差し出した。
 英雄の脳裏によぎるのは、新たに与えられた任務の内容。
 アニーは天才と謳われた魔導師の弟子である。クラウスは、アニーが恐ろしい魔道書を生み出さないように見張らなければならない。
 監視役と監視対象。そこに人らしい交流があって誰が悪いと言うだろうか。
 クラウスはその手を握り返して微笑んだ。

地下牢から出て白亜の王宮に戻ったクラウスを、髭を蓄えた細身の男が待っている。
「スコット大臣!」
 クラウスが礼をするも、大臣は何が気に食わないのか不機嫌そうな顔を押しつけてくる。
「弟子の様子はどうだった? 日を跨ぐような作業をしていないだろうな?」
「今日は少量の水を熱する魔道書を書いていただけです」
「油断するなよ。あんな成りをしているが、天才ダルハイド唯一の弟子だ。戦場では無敵のお前でも隙を突かれればどうなるか分からん。翼はいつでも出せるようにしておけ」
 泥人形をけしかけられたことは伏せておいて正解だったとクラウスは思った。大臣の態度から推測するに、そんなことをすれば大騒ぎになっていただろう。
「では、引き続きやれ」
「あの……」
 去ろうとする大臣に声をかける。本来であれば許されない無礼だが、戦場の活躍により浸透した英雄という称号が無理を通す。
「何かね」
「自分はいつまでこの任を続ければいいのでしょうか?」
 クラウスは剣の柄を握りしめた。
「……戦場に焦がれるか。だが、お前の勝ち取った平和だぞ」
「戦地に戻りたいとまでは言いません。しかし、自分には!」
 抗議を遮り、大臣はクラウスの肩に掌を乗せた。
「近々君を軍の大隊長に任命しようという動きがある。つまらぬ雑務と思うかもしれんが、さらなる栄誉に続く道を短くするのは、小さな積み重ねだ」
 クラウスの身体が硬直した。甘い菓子を食べた直後のような気分だった。
「四日だ。それだけあれば、民の票で弟子の処分も決まる。既に新聞には投票開始を告げる記事を載せておいた」
 大臣が今度こそ背中を向けて廊下を去る。
 英雄は少し未来に突如現れた輝きを、いつまでも呆然と眺めていた。

「今日はこの国の話を聞かせて」
 絵本の読み聞かせを強請るようにアニーは言った。両手で頬杖をつき、机の下で素足をぶらつかせる。手元に書きかけの魔道書がなければ、町で遊ぶ子供達と見分けはつかない。
「勘弁してくれ。会話は苦手なんだ」
 すっかり定位置となった椅子の上でクラウスは諸手を挙げる。
「三日で音を上げるなんて、情けない人。それとも昨日まであなたが話せていたのは、自分の活躍に関する質問ばかりだったから?」
「嫌味を言っても駄々は通らないぞ。第一、会話をしていたんじゃ魔道書が作れないだろう」
「どうせ大した物は作れない」
「腐るなよ。君は天才の弟子なんだろう」
 励ますつもりだったが、逆効果だったらしく、アニーはきつくクラウスを睨む。
「魔道書は言の葉に感情と知識を与えて作る。傑作は一日でできない。あなたに翼を授けた魔道書だって、師匠は一ヶ月の研究と一週間の執筆で完成させた」
「大臣が君に日を跨ぐ作業をさせるなと言っていたのはそういうことか」
「そのルールを僕に守らせるためにあなたがここにいる。保険という意味合いもあるかな。万が一僕が究極の魔導書を生み出しても、同じ規模の力を使いこなす英雄であれば止めることができるからね」
 つまり、アニーからやる気を奪っていたのはクラウスの存在だった。
 放った矢が自分に戻ってきたような感覚にクラウスはたじろぐ。
「僕には、僕をこんな風に閉じ込めた王国のことを知る権利があると思わない?」
「何も知らないというわけでもあるまいに」
「英雄がどんな風にこの国を見ているか、という話を聞きたいんだよ。自分の思うまま国を動かす国王や大臣達を、あなたはどう思っているの?」
「彼等は君の思うような身勝手をしていない。誰もが政治に異を唱えることができる法が用意されている」
「知ってる。問題が起きる度、町の広場に投票箱が置かれるんでしょ? まさか、それで公平さが保たれていると本気で信じているの?」
「……どういうことだ?」
「とぼけないでよ。それとも鈍いの? 新聞社は国に管理されている。形だけ公平さを保っていても情報と民衆の心が常に国の思うままだから意味がない。実際、師匠が謂れのない罪を押しつけられて処刑された時も、民は師匠を悪と信じて疑わなかった。大臣が印象を操ったせいだ!」
 机から立ち上がって慟哭するアニーに、クラウスは声をかけることができなかった。
 そんなクラウスに落胆したのか、アニーは冷たく言い放つ。
「所詮、英雄も戦場を離れればカカシだったってわけか。自分の頭で考えて行動しないのなら、法も権利も宝の持ち腐れだよ」
 カカシという比喩がクラウスの体温を奪う。戦地を離れて以来、抱え続けていた悩みを具体的に形にされた瞬間だった。
「ねぇ、クラウスさん。師匠は十冊の究極の魔道書を書こうとしていた。国が保管している物は九冊。残りの一冊は何処にあると思う?」
 答えは明確だった。それを完成させる前に天才は国に殺されたのだ。
 そして、夢は一人の弟子に託された。
「それを君が完成させる予定だったのか」
 アニーは寂しく笑った。
「それだけが僕に与えられた役目。そのために生きさせられてきた。だけど、この国はとても臆病で、師匠の夢を受け入れる器はなかった」
アニーを縛る鎖を固定しているのはクラウスだ。それを理解して尚、英雄は牢から離れることができない。
 そしてその日、そんな彼にアニーが再び声をかけることはなかった。

 地下牢。二人の兵士が門に近づくクラウスに反応する。
「どうされました? まだ時間には早いようですが」
 クラウスが片手に握っているのはアニーの処刑が決まったと書かれた新聞だ。彼はそれを兵士の目の前で握り潰す。
 異変に気づいた兵士が剣を抜くも、竜の翼によって動きを拡張された英雄には追いつかない。
 国を救った力により、兵士は瞬時に無力化された。
 クラウスは門を潜り、書斎を塞ぐ鉄格子を切り裂く。
 書斎の隅で、身体を抱えるようにして座っていたアニーが尋ねた。
「何のつもり?」
「逃げろ」
 アニーは訝しみながらも立ち上がって鉄格子を潜る。
「あなたはどうするの?」
「ここで大臣相手に言い訳しておくさ。例えば、実は君自身がダルハイドの残した魔道書で、その力で俺が操られた……とかな」
「魔道書が本の形をしているとは限らないって気づいていたの?」
「言の葉に感情と知識を与えて作るという説明がヒントになった」
「そう」
短く呟いた後、暫く間を開けてからアニーは問うた。
「あなたもついてくる気はないの?」
 英雄は首を振る。
「それはできない」
「……残念だね」
 孤独な若い魔導師は地下を静かに歩き始める。
 視界の中にいる間だけは守ろうと、クラウスはその背を見つめた。 
 しかし、アニーは突如床に頽れる。
「どうした!?」
 慌ててクラウスは小さな身体を抱き起こす。アニーの口からは一筋の血が零れていた。
「毒……いや、呪いか?」
 震える指がクラウスの胸元にある指輪に触れた。
「あなたには大切な人がいるんだね。きっと明るい未来もある。でも、僕はあなたが英雄を名乗ったまま幸せになることを許さない」
 禍々しく嗤うアニーにクラウスは困惑した。
「何を言っている?」
「魔道書は僕じゃない。あなただよ。この数日の会話を経て、あなたに僕の感情と知識を与えた。最後に僕の死を学ばせて、この国を滅ぼす究極の魔道書が完成する」
 戦場では感覚の麻痺が死という絶望から英雄を守っていた。しかし、今ここにおいてクラウスの心は丸裸にされている。その隙間を縫うように、彼の身体と翼を闇の魔力が覆う。
「な、んで」
「カカシを辞めるのが遅すぎたんだよ。しかも、その足はまだ地面に埋まったまま。飛べない竜なんて中途半端で無様だね。そんな調子で僕の気持ちが分かるわけない」
 アニーの口から零れる血が増える。比例してクラウスの身体を覆う闇の量も増加した。
「あなたはきっと正しい場所にいるのだろうけど、正しい人間が恨まれないとは限らない。選択肢のなかった僕は、あなたを道連れにこの国を呪う」
 巡回の兵士達が異変に気づいたのか、多くの足音が聞こえてくる。
 彼等が闇に染まったクラウスの姿を見た時、どのように思い、どのような結論を出すのか、その時に果たして英雄という称号は役に立つのか。
 必死に考えるクラウスの顔を眺めてアニーは言った。
「ああ、そんな顔が見たかった。まるで鏡のようだね」
 喉が焼けるほど叫ぶ英雄の腕の中、アニーは夢を語らず息絶えた。

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