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JOG(1178) 菅原道真公 ~ 怨霊から天神様へ

当初は怨霊として恐れられた道真公が、いつのまにか学問、習字、和歌などの神様として敬愛されるようになったのはなぜか?


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■1.怨霊から天神様へ

 日本三大祭りの一つ、大阪の夏を彩る天神祭も、今年は武漢コロナの影響で中止になってしまいました。天神様の菅原道真公の誕生日は旧暦6月25日で、それをお祝いするために新暦の7月25日に行われ、多くの見物客が船で大川(旧淀川)に繰り出し、川沿いや橋の上に集まった群衆と共に奉納花火を見上げる、水の都大阪にふさわしいお祭りです。

 この天神祭は大阪天満宮が鎮座した天暦3(949)年の2年後に始まったとされていますから、もう千年以上の歴史があります。そういえば、天神や天満は、神社にしても地名にしても、日本中にありますね。

大阪天満宮 社殿

 日本三大天神とは、この大阪天満宮に加えて、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮の3つを指す事が多いようですが、それ以外にも江戸三大天神、名古屋三大天神、周防の国(山口県東南部)三大天神など各地にあり、日本全国では約1万社もあるそうです。

「天神」とは、もともと雷の神様でしたが、道真公左遷に関わった人々が落雷で命を落とした事から、公の怨霊が雷神となったという伝説が広まり、道真公と天神を同一視する風潮が生まれました。道真公の怨霊を鎮めようと北野天満宮や大阪天満宮が建てられたのですが、やがて和歌や書道の神、正直の神、慈悲の神、学問の神など多方面での信仰を集めました。

 当初は、怨霊として恐れられた道真公が、いつのまにか天神様として全国各地で親しまれ、賑やかな天神祭まで開かれる、というところに、我が国の明るい素直な国民性が現されているように思えますが、どうして道真公が恐ろしい怨霊から敬愛される天神様へと変わったのでしょうか。道真公の生き方を辿りつつ考えてみましょう。

■2.財政破綻問題解決へのエースとして送り込まれた道真

 学問の道で順調な出世を続けていた道真公の経歴が一変するのは、仁和2(886)年正月、42歳にして讃岐守(現在の香川県)に任ぜられた時でした。それまでに式部少輔(しきぶしょうゆう、儀式、官僚人事、教育を担当する次官)、文章博士(もんじょうはかせ、大学寮での詩文と歴史の教官)となって、学者として本懐を遂げていた道真公にとっては心外な人事でした。

 太政大臣・藤原基経が開いた祝宴では、失意のあまり嗚咽したと伝えられています。そして、他の人々がこれを左遷と言うのは堪えがたいという漢詩を残しています。[坂本、p70]

 しかし讃岐は重要な国であり、代々の讃岐の守は正四位下の人物が任ぜられていました。道真は従五位下でしたので、数ランクも上の抜擢人事です。[平田、p64]

 なぜこんな特例の人事が行われたのでしょうか? 当時、讃岐の人口は20数万人もいたのですが、収税額から見ると半分程度の課税人口しかなく、国司たちの中央への報告書にも「財源が尽きました」という文言が多用されており、財政破綻の極みにありました。

 人民に一人当たりの耕作地を支給して、そこから租税をとるという律令制が成立してから約200年。国家の財政は行き詰まり、新たな制度が必要とされていました。道真はこの問題に対応するためのエースとして送り込まれたのです。

「これを左遷として泣きじゃくった四十二歳の道真は、まだ精神的に弱いところを残した貴族の御曹子にすぎなかったとしかいいようがない」と、平田耿二・上智大学名誉教授は評しています。

■3.民衆の「福祉を図ることに、日夜肝胆を砕いた」

 しかし、「実際かれは国守の任に不満があったとはいえ、なすべき務めを怠る人ではなかった。讃岐国二十八万の民衆を治める身として、その福祉を図ることに、日夜肝胆を砕いたのである」とは、坂本太郎・東大名誉教授の言です。

 道真公は民衆の生活の実態を鋭く観察し、彼らを救うためにも崩れつつある律令制をどう立て直すのか、考え始めます。領内を巡視した様子を次のように漢詩に詠んでいます。

・低い身分の貧しい民が、富裕な土豪たちに虐げられないようにする。
・親兄弟のいない気の毒な者がいれば、援助の手をさしのべる。
・貧窮の家があれば、その家の門に立って、主人から事情をきく。
・一人で田を耕している者がいれば、相棒はどうしたかと訊ねる。

 今までの詩文の世界とは全く別の、現実の民衆の貧窮生活を観察したことで、道真は政治そのものを改革しなければ、との志を抱いたようです。

■4.阿衡事件を鮮やかに解決した道真

 道真が讃岐守在任2年目の仁和3(887)年11月に阿衡(あこう)事件が起こりました。

 即位したばかりの宇多天皇が、藤原基経に関白の役割を果たすよう勅書を送られました。その中に「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」という一節があり、阿衡は位であって、特定の仕事を持つ「職掌」ではないから、「政治に与(あずか)るべきではない」と解釈した基経が怒って、一切政治を見なくなったのです。

 真相は、勅書を書いた文章博士・橘広相(たちばなのひろみ)を追い落とそうとした基経のたくらみだった、と言われています。宇多天皇は学者達に意見を求めたり、「朕の本意ではない」と基経の理解を得ようとしましたが、基経は広相の処罰を求めて止みません。

 ところが、ほぼ一年経って、基経は「始めより何の意もなし」という書状を出して、広相の処罰もないまま、急転直下解決を見ました。この解決の裏には道真公の動きがあったようで、公は急遽、讃岐から上京して紛議の解決に奔走し、ただちに讃岐に舞い戻ったとみられています。

 道真公が基経に出した長文の書状が残っていますが、そこには二つの点が述べられています。一つは、こういう揚げ足取りの形で広相を罰するようなことがあれば、文章を作るものはみな罪科を得る恐れがあり、文章の道は廃絶してしまうこと。第二は、広相は才知あり、功労あるものであるから、これを無実の罪に陥れることは、藤原氏のためにもならない、というものでした。

 第一は堂々と文章道の筋を正し、第二は藤原氏の前途を憂える真情が籠もっています。「これを読んだ基経には深く迫る所のものがあったに違いない」と、坂本教授は述べています。讃岐への赴任に際して自分のことだけ考えていて泣きじゃくっていた道真公でしたが、ここでは文章家のため藤原氏のために、関白にも堂々と言うべき事を言う人物になっていました。

 21歳の青年で即位された宇多天皇は、即位早々、足をとられた阿衡事件を鮮やかに解決した道真の手腕と志に多大の期待をかけられたようです。寛平2(890)年春、讃岐守の任期を終えた道真はトントン拍子で出世します。50歳手前で脂の乗りきった道真公は青年天皇と力を合わせて、国政改革に挑んでいきます。

■5.道真の改革構想

 それまでの律令制では、人民の戸籍を把握して、それぞれに口分田を与え、租税を徴収するという方式でしたが、人口は奈良時代だけで100万人も増え、また寺社や貴族の私領も増えて、必要なだけの口分田を与えることが困難になっていました。一方、人民も税から逃れるために逃亡したり、戸籍を詐ったりして、税収は落ち込んでいきました。

 たとえば、一家で男1人に女10人などという偽りの戸籍が作られていました。律令制のもとでは、女子にも男子の3分の2の土地が与えられ、しかも男子のみに課される労役(庸)や繊維製品の納入(調)があったので、女子の人数を多くすることで、口分田を受け取りつつ、税逃れができたのです。

 この事態を打開するために道真が構想したのが、戸籍による課税を転換して、誤魔化しの効かない土地による課税にすることであったと、平田教授は指摘しています。

 具体的には全国の土地をすべて国有化し、人民に改めて口分田を支給する。貴族や寺社が荘園としていた土地は条件付きで許可し、その上で地税をとる、という仕組みです。同時に土地を失った貧しい民にも土地を与え、奴婢も解放して公民に準ずるものとしました。

■6.道真の流刑

 寛平9(897)年、道真が京都に戻って、すでに7年。宇多天皇は譲位されて、いまだ12歳の第一皇子が醍醐天皇として即位されました。道真一人がこの譲位の相談に与っていました。宇多天皇は上皇となることによって、藤原基経の子・時平の影響力から逃れて、道真とさらに改革を進めたいと思われていたようです。平田教授は次のように述べています。

 道真による国政改革がつぎつぎに実施され、新しい国家構想を一気に実現するという方向に向かいはじめると、時平をはじめとする藤原氏の凋落は、誰の目にも明らかであった。それとは逆に、道真の権勢は日々高くなり、菅家廊下出身の官僚は諸司に半ばするほどであったから、窮地に陥っていた藤原氏は、一発逆転の機を狙うしかなかった。事は急を要していた。[平田、p179]

「菅家廊下出身の官僚」とは、道真公の書斎に入りきらない門人たちが、書斎への長い廊下を教室にして学んでいた事を指します。門下の秀才達が、官僚の半ばを占めるほどになって、道真公の改革を進めていました。

 昌泰四年(901)年正月7日、道真公は時平とともに従二位に進み、まさに順風満帆に見えました。しかし、この時、すでに追い落としの計画は周到に準備されていたのです。正月25日、突如、道真公を追放する宣命(せんみょう、天皇の勅語を和文で書いた文書)が発せられました。

 それには、醍醐天皇の弟君で道真の娘を迎えている斉世(ときよ)親王を即位させようと企んでいる、という理由で、太宰権帥(ごんのそち)として左遷する、という内容でした。太宰権帥とは、太宰府の長官代理で形の上では左遷ですが、実質は体の良い流刑でした。

 宇多上皇はこれに驚いて、急ぎ内裏に馳せ参じましたが、左右の警護の者が通させません。終日庭に座られていましたが、誰も門を開かないので、ついに晩に諦められました。

 道真の成人していた息子たちは、土佐や駿河、播磨など、ちりぢりに左遷されましたが、門下生たちはお咎めなしでした。時平は彼らを使って、道真の改革を引き続き、実行していったのです。

 時平はその翌年、道真によって準備されていた国政改革の最後の仕上げとなる官符(公文書)を発行しました。これが後に「延喜の治」と称賛される国政改革です。時平は、道真の手柄を横取りしたのでした。

■7.「恩賜(おんし)の御衣(ぎょい)今こゝにあり」

 道真を太宰府に護送する一行は、早くも2月1日に京を立ちました。その時に、道真が詠んだのが次の和歌です。

 東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春を忘るな
(東風が吹いたら、匂いを届けて欲しい。主がいないからといって春を忘れるな)

 太宰府の官舎は、床も朽ち、縁も落ち、屋根は雨漏りがしていました。そこで道真公は謹慎生活を送ったのです。身の不運を嘆き、生活の苦しさは謳いましたが、人を恨むことはありませんでした。

 去年の今夜、清涼に侍(はべ)りき。
 秋思の詩篇独(ひと)り腸(はらわた)を断つ。
 恩賜(おんし)の御衣(ぎょい)今こゝにあり。
 捧げ持ちて毎日余香(よこう)を拝してたまつる。

(去年の今夜、わたしは宮中の清涼殿で天皇のお側近くに座っていた。「秋思」という題で詩を作るようにという思し召しに、わたし一人が腸を絶つような痛切な思いをこめた詩を奉った。その詩が天皇のお気に召して御衣を賜った。それは、筑紫のこの地まで持ってきたが、今では、その御衣を捧げ持っては、その余香をかいで天皇さまをお慕い申し上げる毎日である)

 ちょうど一年前に宮中の観菊の歌会が催され、翌日の後宴(ごえん)で、道真はこれまでの皇室からのご恩に報いたい、との詩を詠み、感動された醍醐天皇はお召しの御衣を道真に授けられました。その時の感激を、御衣の余香を偲びながら謳った詩です。

■8.怨霊から天神様へ

 悪巧みによって、これほどの逆境に落とされた人物にしては、恨みのかけらも見られない、清明な心境です。讃岐で見た貧しい民衆を救うために、宇多上皇や醍醐天皇を補佐し、大勢の門人たちを率いて国政改革に挑んだ道真公ですから、自分は追いやられても、時平が門人たちを率いて、改革を実行してくれればそれで良い、という思いだったのかもしれません。

 道真公は江戸時代の寺子屋で、広く学問の神様、書道の神様と教えられました。この和歌や漢詩も教えられたでしょう。子供たちは、この和歌や漢詩を通じて、道真公の清明心に触れたと思われます。北野天満宮の縁起には、次のような一節があります。

おほよそ天神に信仰申さむ人は、まづ忠孝をさきとし、是非をわきまへ、正直を存じ、慈悲の心ふかくて人をたすけ、民をやすくして、なにごとにてもどうり(道理)をそむかず、、、[坂本、p160]

 道真公は、まさにこのような徳をもった人として、崇められてきました。とすれば、怨霊から一転して、天神様として敬愛されたのも当然です。その生き様は日本人の生き方のお手本として、人々に清明心を教えてきたのでしょう。こういう天神様をお祀りすることが「和の国」の民を育てる道徳教育でした。

(文責:伊勢雅臣)

■おたより

■小生の一族は道真公の末裔(梅原さん)

 実は小生の一族は道真公の末裔とされております。

 小生自身も本籍地は大分県日田市です。日田市にある本家(神社)の家系図には小生の父の名が入っており、言い伝えによりますと、大宰府で道真公が死去した時、天変地異が多くて死亡者が多かったそうです。

 そのころの地球は地勢的に落ち着きがなかった様ですが、そのためか一族は迫害されて大宰府を脱出し、筑紫の山越えをして日田盆地に逃亡したとのことです。

 その時に菅原姓から梅原姓に変わった模様で、日田盆地(現在の日田市の北西)にあるいくつかの神社の禰宜(神主)はほとんど梅原姓とのことです。確かに一族は学者が多く、大分大学の考古学の教授だとか福岡教育大学の教授だとか先生が多いですね。


■伊勢雅臣より

 千年以上前の偉人の子孫が今も続いているとは、いかにも日本らしいですね。天神様としての信仰とともに、人間としての道真公の顕彰教育も広まって欲しいものです。

■リンク■
a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本2 「和の国」という“根っこ"』、育鵬社、H31

 縄文以来の「和」の根っこが、日本を作ってきた。

アマゾン日本論2位、総合59位(発売日10/9時点)

■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  
・坂本太郎『菅原道真 (人物叢書)』★★、吉川弘文館、H1

・平田耿二『消された政治家・菅原道真』★★、文春新書、H12

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